速報(訃報)


 当会代表理事、岩佐幹三氏がかねてより病気療養中でしたが、9月7日(月)午前3時逝去された旨、ご遺族よりご連絡がありました。享年91歳です。
 生前、故人に寄せられましたご厚情並びにご交誼に心より感謝いたします。
 ご遺族のご希望により、葬儀は家族葬として静かに執り行われます。通夜、告別式への参列、供花・弔電等はご遠慮願います。
 なお、有志による「岩佐幹三さんを偲ぶ会(仮称)」について、日本被団協の関係者ともご相談したいと考えます。

2020年9月8日
       認定NPO法人 ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会
                         事務局長 伊藤 和久

【岩佐幹三さんを悼む】


◆ 岩佐さん、ありがとうございました


   日本原水爆被害者団体協議会 事務局長 木戸 季市
 

 岩佐さん、お別れの日が来ました。覚悟はしていましたが、つらいです。
 岩佐さんに初めてお会いしたのは、1990年7月でした。場所は岐阜市の都(みやこ)町にある保健所の5階会議室、日本被団協と岐阜県が協力して岐阜県在住730人余の被爆者を対象に開いた相談会(100人以上が参加)でした。当時、全国で岐阜県だけ被爆者の組織がありませんでした。被団協は組織づくりを兼ねて、岐阜県は被爆者行政をスムーズに進めることを願って開いたものでした。翌年の5月19日岐阜県原爆被爆者の会(岐朋会)を結成(再建)し、47都道府県すべてに被爆者組織が存在することになりました。
 日本被団協から、肥田舜太郎、小西悟、伊藤直子、東海北陸ブロックから、杉山秀夫(静岡)、田村卓也(愛知)、嶋岡静男(三重)、岩佐幹三(石川)さんが参加してくださったと記憶しています。今は亡き人ばかりです。30年という年月の重みを感じます。
 阜山荘で行われたブロック会議の夜、皆さんが眠る中、二人で長く話し合ったことがありました。深く付き合い、議論し合うようになったのは、私が2008年に事務局次長になってからです。13年ということになります。毎月の事務局会議、諸会議、中央行動、2010年の現行法改正要求作り、NPT再検討会議のニューヨーク行動などなどを通し、被爆者と運動について教えられ、導かれました。
 岩佐さんのあの日の体験は衝撃でした。岩佐さんは「母と妹への手紙」(2008年)で語っています。「母さん、僕は、先日も何回目かのつらい夢を見たよ。頭上でグワンという爆発音がして破壊し尽くされた街並みが現れた。それを見た僕は、『今度こそ母さんを助けるぞ』と叫んだ瞬間に、目がさめた。その時の悔しさは、言いようがなかったよ。母さんたちの死は、戦争だから仕方がなかったという考え方は、絶対に許せない」。
 さらに、つづけて語っています。「でも僕たちが体験したことよりも、原爆は、もっともっとひどくつらい体験を被爆者に与え続けているんだ。そのような被害を、僕たちの子孫、そして日本国民、さらに人類の上に、再び繰り返させたくない。だから『ふたたび被爆者をつくるな』と核兵器の廃絶を訴え、国が、その『証』として戦争被害、原爆被害に対して将来にわたって補償することを求めて頑張っているんだよ。2020年には核兵器を完全に廃棄させようという運動が進められている。その目標が達成されたなら、その時には、母さんたち一緒にお空に上ってお星さまになりたいね」。
 岩佐さん、ご苦労さまでした。そして、ありがとうございました。

◆ 岩佐幹三さんの思いを受けついで

認定NPO法人 ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会
        事務局長  伊藤 和久
 

 2010年のある日、岩佐幹三さんは、あの日亡くなった人たち、様々な苦しみを抱えて生きてきた人たち、被爆者たちの死や生きざまのすべてを無駄にしないように次世代に伝えていきたい、と語ってくれました。岩佐さんに初めてお会いした時から今日まで、あっという間に10年間が経ってしまいました。
 岩佐さんの思いは、この会の発足にあたって確認した「長期ビジョン」に凝縮されています。「『ふたたび被爆者をつくるな』という願いをもとに、~原爆被爆者の記憶遺産の継承という壮大な構想の実現」(長期ビジョン(はじめに)末尾)にあります。
 岩佐さんは、16歳の時にお母さんを救うことができず「今度こそ助けるぞ」という夢を今でも見ると語ってくれました。岩佐さんは熱意を込めてこの会を立ち上げるとともに、「原爆は人間として死ぬことも生きることもゆるさなかった」と原爆の非人道性を告発し、いつでも先頭に立って前のめりになるほどの姿勢を貫いてきました。しかし今年度、5月の総会を控え、足腰が自由にならず動けなくなり電話口に出られて、「代表理事としての後事を中澤さんにお願したい」と代行を置くよう要請されました。会の運営や行方を気にかけておられましたが、これが最後の会話となりました。
 岩佐さん、長い間お疲れ様でした。
 私たちは、岩佐さんの思いを受けついで、必ず「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産継承センター」の設立を実現します。見守っていてください。
 

※ 2008年、NHK広島「ヒバクシャからの手紙」に応募した岩佐さんの原稿
   母と妹への手紙
                       

岩佐 幹三

 母さん、好っちゃん(好子)。今年も8月6日がやって来たね。
 被爆から64年がたった今でも、僕は、原爆で連れ去られた母さんたちの命を甦らせて、手を取り抱き合いたいという空しい願いを持ち続けているんだ。
母さん、僕は、先日も何回目かのつらい夢を見たよ。頭上でグワンという爆発音がして破壊し尽くされた街並みが現れた。それを見た僕は、「今度こそ母さんを助けるぞ」と叫んだ瞬間に、目がさめた。その時の悔しさは、言いようがなかったよ。母さんたちの死は、戦争だから仕方がなかったという考え方は、絶対に許せない。
 でもね、当時の僕は、16歳の中学生、全くの軍国少年だった。あの年の5月病気で亡くなった父さんや母さんを、本当に困らせたんだろうね。日本が起こした十五年戦争で、アジア諸国で2千万人、日本でも300万人の尊い命が失われた。その戦争のお先棒を担いだ一人だったんだからね。僕たち若者が、敵の軍艦や戦車に体当りして戦死すれば、家族は守れるし、後はどうにかなるだろうと浅はかにも死ぬことだけ考えていたんだ。
 それなのに死んでも家族を守るべきはずの僕が生き残り、守られるべき二人を守ることができなかった。戦争って何だったんだろう。軍国少年って一体何だったんだろう。
 その反省と謝罪の気持ちをこめて、今この手紙を書いているよ。
 15年にわたる戦争、特に敗戦の年は、僕たちの生活は耐乏状態の限界をこえていた。戦争に勝つためにがまんせよと、すべて軍事優先、衣服も食料も配給制度になり、それも遅配続きだった。お金があっても何も買えなかった。本当につらかったね。父さんがいないわが家では、食料の算段もできず、8月はじめには米ビツも空ッポだった。母さんは、「少しでも食べて死ねば顔色でもいいよ」と言って、わずかに残っていたお米を炊いて茶わんに半分ずつ三人で食べたよね。あれが水盃になったのかな。母さん覚えている?
 だが母さんは、8月4日か前日の5日か、近所の小さな店で、醤油いためのひじき一皿分を、僕たち兄弟のために持ち帰ってくれたんだ。自分も空き腹なのに、一緒に出された大豆の豆かすをひいたコーヒー(?)汁を飲んだだけで。それを僕たち兄妹は、むさぼるように食べてしまったが、親なればこそ、決して忘れてはいないよ。
 母さんは、そんなことまでして僕たちを守ってくれたのに、僕は、何もできなかった。だから今になって戦争がもう少し早く終わっていたら、せめて少しでも銀シャリ(白米)を食べさせて上げられたのになんて、時々ごたくを並べているんだよ。でもね、母さんたちの死は決して無駄にはしない。戦争も、原爆=核兵器もない世界のため頑張っているよ。
 あの年、昭和20年、東京、大阪、名古屋をはじめ全国の大中小都市が次々と米軍機によって焼土となり、沖縄も陥落していた。日本の戦争する余力は尽きていた。それでも国は戦争を継続し続けていた。そして8月6日がやってきた。
あの日は、動員中の工場が電休日だった。8時15分少し前、僕は、自宅(広島市富士見町=爆心から1・2キロ)の庭にいた。飛行機の爆音が聞こえて間もなく、激しい爆風の衝撃で、地面にたたきつけられた。そこはやわらかい畑地だったから大した傷も追わなかった。50センチほど右にいたら庭石にたたきつけれて即死だっただろう。家の前のバス通りを挟んだ向かいの家の屋根の陰になって、奇跡的にやけども負わなかった。
 一瞬にして崩壊した広島の町並み、母さんは、崩れ落ちた家の下敷きになっていた。「母さん!」と呼ぶと、屋根の下から「ここよ」という声が聞こえた。「ああ良かった。生きていてくれたんだ」とその瞬間は安堵の胸をなでおろしたんだ。しかしその喜びも束の間だった。屋根板をはがして逆立ちをするように顔を突っ込んだ目の前には、家のコンクリートの土台の上に大きな梁が重なって、行く手をはばんでいた。わずかな隙間から1メートルほど先に仰向けに倒れている母さんの姿が見えた。つむった目のあたりから血が流れていた。どこかをひどくうちつけたのか、何を話しても目を開けず、顔をこちらに向けようともしなかった。「こっちからはもう入れんのよ。そっちで動けんの」と聞くと、「左の肩の上を押さえている物をどけてくれんと動けんのよ」という答えが返ってきた。
別の方から掘り出したが、なかなか進まない。そのうちに爆風の吹き返しの火事嵐が物凄い勢いで迫ってきた。火の粉がふりかかってくる。気が気でない。「母さん、駄目だよ。火事の火が近づいてきたよ。こっちからはもう側まで行けんよ。」悲鳴に近い叫び声をあげた。外にいる僕でさえ何が起こったかわからないのだ。まして家の下敷きになって周りが見えない真っ暗な中では不安というよりも恐怖心で一杯だったろうね。でも母さんは、「そんなら早よう逃げんさい」と言ってくれた。
 それなのに気も動転していた僕は、「母さん、ごめんね。父さんの所へ先に行っていてね。僕も、アメリカの軍艦に体当りして、後から行くからね。」何という不遜な親不孝の言葉だろう。しかもその後に「好ちゃんが大きくなったら、いい所へお嫁にやるからね」と言ったんだよね。すぐ後から行くと言いながら、妹が大きくなるまで生きると言ったんだ。死別の際に母さんを裏切る言葉を告げたんだよ。そして80歳近くまで生き延びているんだよ。母さんへの罪の意識は一生だいていくよ。
 母さんは、死を覚悟したのか「般若心経」を唱えだしたね。僕は、その声に後ろ髪を引かれながら、原爆の業火で生きながら焼き殺される母さんを見殺しにして逃げたんだ。2、3日後、家の焼けあとに積もった灰の中を探したら、母さんが倒れていた場所から遺体らしいものを見つけ出すことができた。それが母さんだったんだ。でもそれは人間の姿ではなかったよ。母さんは、小柄な女性だった。まるでこどものマネキン人形にコールタールを塗って焼いたような油でずるずるした物体だった。母さんは、あんな姿で殺されたんだね。人間としてではなく、「モノ」として殺されたんだ。悔しい。本当に悔しい。
 あの日比治山橋近くの土手で野宿した僕は、翌日紙屋町から半ば破壊された相生橋まで来て、突然絶望感におそわれた。それまで被害は広島の東部地区だけだと思っていた。橋の上から見渡せる西部地区も同じように原爆焼け野原になっていた。好っちゃん(好子)は、あの年あこがれの県立第一女学校に入学できて、張り切っていたね。でもあの日は、土橋付近の建物疎開の後片づけに動員されていたんだ。相生橋から見ると、すぐ目の前じゃない。「あっ! 好っちゃんもやられたんだ。」そう思うと頭の中が真っ白になった。避難先にしていた安佐郡緑井のかおる叔母さん(母の妹)の家にも、あんたは来ていなかった。好っちゃんたちまだ12、3歳の男女中学生約5千人が、青春の喜びも悲しみも知ることなく死んでいったんだ。戦争が招いた原爆地獄の悲劇は決して繰り返してはならない。
 その日からもう生きているはずのない好っちゃんを探す兄ちゃんの放浪の旅が始まったんだ。土橋、己斐、江波、草津、五日市までどこをどう歩いたか全く覚えていない。毎日とは言わないが、ただ夢遊病者のように歩き回ったんだ。あれは、もしかして原爆被害特有の「ぶらぶら病」の一種の症状だったのかも知れないね。
 そしてちょうど被爆から1ヵ月たった9月6日、急性症状が出て病床に臥すことになった。かおる叔母さんのおかげでたまたま近所に疎開していたお医者さんから高額な注射治療を受けられて、また奇跡的にも回復できたんだ。そのことが契機になって、僕も被爆者なんだと自覚するようになったんだ。
 その後かおる叔母さんが、母さんの代わりに僕を養育してくれたんだ。そのおかげで大学を卒業でき、大学の先生になれた。そして勤務地の金澤で石川県原爆被災者友の会の会長に選出されて、被爆者運動にかかわるようになったんだよ。定年になって千葉県に移り住んで、今は被爆者の全国組織である日本原水爆被害者団体協議会の事務局次長を務めることになった。その間にも多くの被爆者と同じように原爆被爆の影響で晩発性放射線障害のがんや原爆白内障にもかかった。中でも前立腺がんは、薬物療法による治療を受けて、体内にがん細胞をかかえたまま、運動に努めているよ。繰り返すことは、決して許されないことだから。
でも僕たちが体験したことよりも、原爆は、もっともっとひどくつらい体験を被爆者に与え続けているんだ。そのような被害を、僕たちの子孫、そして日本国民、さらに人類の上に、再び繰り返させたくない。だから「ふたたび被爆者をつくるな」と核兵器の廃絶を訴え、国が、その「証」として戦争被害、原爆被害に対して将来にわたって補償することを求めて頑張っているんだよ。2020年には核兵器を完全に廃棄させようという運動が進められている。その目標が達成されたなら、その時には、母さんたち一緒にお空に上ってお星さまになりたいね。

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