《寄稿》『ナガサキ―核戦争後の人生』        著者スーザン・サザード氏 来日イベントに参加して

 賛助会員:宇治川康江(翻訳家)

米国に住むノンフィクション作家スーザン・サザードさんが12年の歳月を費やし、長崎被爆者の人生と原爆の実像に迫った『ナガサキ―核戦争後の人生』の日本語版出版を記念し、11月9日と10日の二日間にわたり、長崎市でイベントが開かれました。

 この本の翻訳者として、私は一年以上にわたりサザードさんと親交を深めてきたこともあり、今回の来日を心待ちしていました。執筆にあたり、彼女は本に登場する5人の被爆者、谷口稜曄(すみてる)さん、和田耕一さん、堂尾みね子さん、永野悦子さん、吉田勝二さんはじめ多くの被爆者にインタビューを重ね、深い信頼関係を築いてきました。                    サザードさん(前列右)と共に 後列左端が宇治川さん

 9日のイベント(長崎原爆死没者追悼平和祈念館の交流ラウンジ)では、そのような被爆者との長年にわたる思い出をサザードさんが日本語で語り、長崎の朗読者グループ「永遠(とわ)の会」のメンバーが、この本の中からサザードさんが抜粋した各被爆者の人生を印象づける場面を朗読しました。5名の内のお一人で今回参加して下さった永野悦子さん(91歳)は、原爆で亡くした妹さんと弟さんのことを、「自分が無理やり疎開先から長崎に連れ戻したばっかりに…」と今でも悔み切れない思いを語り、最後に「どうか戦争のない平和な世の中を築いていってください」と訴えられました。会の様子はNHK長崎放送局によって、夕方のニュース番組でもとりあげられました。

 10日は長崎原爆資料館ホールで、「歴史と向き合う:被爆地から学んだこと」と題した特別市民セミナーが開催され、第一部はスーザンさんの基調講演、第二部では芥川賞作家の青来有一さん、詩人で絵本作家でもあるアーサー・ビナードさん、そしてスーザンさんによるトークセッションが行われました。

基調講演では、サザードさんが、まずこの本が生まれるきっかけとなった谷口稜曄(すみてる)さんとの30年以上前の運命的な出会いや、12年という出版までの長い道のりについて語りました。谷口さんから直接聞いた過酷な被爆体験に強い衝撃を受け、原爆の事実をもっとよく知りたい、被爆者たちが戦後何十年もの間どんな思いで過ごしてきたかのか、その答えを見つけ出したいという思いが彼女を本の執筆へと駆り立てました。その後幾度となく長崎を訪れ被爆者、放射線専門家、原爆医療関係者を含め多くの方々と面談し、幅広い調査や資料の翻訳、実際の執筆とその修正作業を経て、原爆投下から70周年目を迎える2015年、ようやく『NAGASAKI: Life After Nuclear War (ナガサキ:核戦争後の人生)』はアメリカで出版されました。

 講演の中でサザートさんは次のように述べています。「今でも、多くのアメリカ人は、[原爆投下が戦争を終わらせ、何十万、何百万というアメリカ人の命を救った]というアメリカ政府の公式見解を強く信じています。そのため、原爆が長崎と広島の人々にもたらした悲惨な事実から目をそらしています。また世界中の人々が抱く原爆のイメージも、広島・長崎の上空に舞い上がるきのこ雲であり、遠い昔に起きた抽象的な出来事でしかありません。被爆地の人々に及ぼしたとてつもない苦しみを知らないままでいます。そんな中、被爆者の体験を知り記憶にとどめることが大きな意味を持っています。自分の身に起きた体験を語る時、そのストーリーは偏見や拒絶感をやわらげ、相手の心に染みていきます。人々の考えを変えることは容易なことではありませんが、自分と重ね合わすことのできる説得力のある被爆者証言にふれるとき、国、文化、世代を超えて人々の心に伝わっていくものがあります。」

 そして最後に、「日本に投下された原爆とは比べものにならないほどの破壊力を持った1万5千にものぼる核兵器が存在する現在、私たちは自分たちの命と環境が想像を絶する規模で破壊されてしまうという大変な危機に直面しています。そして、この兵器が何をもたらすかを語り続けてきてくれた被爆者たちの実体験を私たちはしっかりと記憶にとどめる責任があります」と訴えました。

 トークセッションでは、青来さんが、「被爆者の体験を単に語り継ぐというより、歴史の事実として正しく理解した上で、その思いを共有し、自分の言葉で身近な人たちに伝え共有していくことが大切」と述べました。ビナードさんからは、「今まであまりにも被爆者に頼りすぎてきた。これからは被爆者の体験をそのまま語り継ぐというよりも、客観的に見つめながら工夫していくことも可能だ」と提言されていました。サザードさんからは、「自国の戦争被害だけでなく、他国に及ぼした加害の歴史にもしっかり向き合う姿勢が必要。それを直視したくないと思う気持ちが被爆体験や戦争体験から耳をそらすことにもなっている」との発言がありました。

 本に登場する5人の被爆者は長年語り部として原爆の悲惨さを学生さん達はじめ多くの人々に語り継ぎ、「長崎を最後の被爆地に」と訴え続けてこられました。心と体に負った深い傷に苦しみ続けながらも、それぞれの個性を生かし、“核なき世界”という同じ目標に向かってひたむきに努力されてきました。自分たちのような体験は、もう誰にもさせたくないという強い思い、今度は私たちがそれをしっかりと受け止め、人間の持つ限りない想像力を十分に働かせ、自分たちの言葉として伝え発信していく時がきています。原爆や戦争の実体験の有る無しにかかわらず、次世代のために平和な世界を引き継いでいくこと、それはすべての人々の願いであるからです。

Ⅵ.《紹介》「炎のメモワール」公式サイト

 昨年10月に亡くなられた小野英子さん(元正会員)は、母・山本信子さんが広島被爆の2年後に英文で書き残した被爆体験記「炎のメモワール」(原題:「THE ATOMIC BOMB IN HIROSHIMA」)を多くの人々に読んでいただけるよう、日本語に翻訳して遺されました。

 このほど公式サイトを開設されたご遺族からの依頼を受けて、継承する会が横田和彦さん、漆原牧久さんのご協力により原文(英文)の校閲を行いました。リニューアルされたホームページで、日英両文を読むことができます。

https://honoo-no-memoir.themedia.jp/

 小野英子さんは、母・山本信子さんが英文で「炎のメモワール」を書き残した事情を次のように記しておられます。(2018年5月)

 「信子は、1906年(明治39年)、日系移民二世として、アメリカ合衆国ハワイ州ホノルル市パウワヒ街に生まれました。アメリカ国籍を持ち、現地の学校に通って英語で教育を受けましたが、13歳のときに日本に帰って広島に住み、英語教師となるべく勉学に励みました。そして、同じように英語教師を目指していた山本信雄にめぐりあい、結婚。信雄は旧制県立広島第二中学校(広島二中)の、信子は旧制広島市立女学校(市女)の英語教師として働き、私の姉・洋子と私・英子の親となりました。

 1945年8月6日、広島に一発の原子爆弾が投下され、爆心地近くで二中の1年生321人と共に建物疎開の作業に従事していた信雄は、全身に火傷を負って、その日のうちに死亡。洋子は観音国民学校の校庭で被爆し、2日後の8月8日朝、郊外の救護所で死亡しました。

 原爆投下2年後という、まだ心が血を噴いているような状態の中で、なぜ信子はこの手記を書いたのか。それは、世界の人々に原爆の悲惨さを知ってもらいたいという願いからでした。手記はアメリカの『TIME』誌宛てに送付されましたが、GHQの検閲にかかって没収され、願いはかないませんでした。」

 信子さんは70歳のときに甲状腺がんで亡くなりました。遺品の中に手記を発見した英子さんは、日本語に訳して1982年に出版(『炎のメモワール』汐文社)。その後長く絶版になっていましたが、2018年夏、有志の協力で小冊子として刊行されました。

 このWebページは、英子さん亡きあと、ご遺族により公開されたものです。

 国内外のお知り合いにも紹介するなど、ぜひ多くのみなさんに読んでいただけるよう、ご協力ください。

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