【つなぐPJ】(広島)8/6韓国にも被爆者がいること、子どもたちへ ~32年前の手記、改訂経て再発刊~

32年前、1987年に発刊された『ヒロシマへ……』。在韓被爆者3人の手記が収められており、被爆体験や韓国へ帰国後の生活、原爆被害の補償を受けるまでの苦労などがつづられている。手記集誕生のきっかけとなったのが、元高校教師で在韓被爆者への支援活動をしている豊永恵三郎さん(83)と、在韓被爆者3人それぞれとの交流だ。3人は既に亡くなっている。手記集に込められた思いを豊永さんに取材した。

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■初版から32年の改訂

表紙に描かれている女性は、チマチョゴリ(韓国の民族衣装)を着ている。口があんぐりと開き、その表情は怒っているようにも泣いているようにも見える。視線の先にあるのは、女性の下に描かれた原爆ドーム。

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1910年、韓国併合によって、日本は朝鮮を植民地として統治した。朝鮮人は農地を奪われ、職を求めて日本へと渡った。多くが日本で徴用、徴兵された。1945年8月、原爆が炸裂。朝鮮人が「日本人」として被爆した。その数は、韓国原爆被害者協会の推計によると、広島・長崎あわせて約7万人とされている。

「原爆というのは日本人が被爆しただけではない。そういう事実を子どもたちにはしっかり知ってほしい」と、豊永さんは話す。在韓被爆者への支援活動をしており、現在は「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の世話人を務めている。支援活動を通じて知り合った在韓被爆者に手記を書いてもらったのが、『ヒロシマへ……』の始まりだ。

初版から32年を迎えた今年、韓国と広島・長崎の位置関係を示した地図と、在韓被爆者に関係する日韓史年表および用語解説を加える改訂をして、絶版となっていた同書を再び発刊した。「小学6年生が読めることを中心に考えたから、わかりやすくなるようにした」

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■差別意識があった少年時代

在韓被爆者に思いを寄せ続けるのには、理由がある。「私の被爆後の少年時代の体験があるのね」

豊永さん自身も被爆体験を持つ。9歳の時に原爆投下後の広島で、母と弟を捜しに行った際、中心部に入って被爆した。その後から生活している、広島市安芸区船越は在日コリアンが多い地域だった。在日コリアン同士が集団で暮らしていること、養豚場など日本人とは別の仕事をしていることなどから、交流がなかった。「僕らにとっては怖い存在で、朝鮮人に対する偏見や差別が強かったよ」

その後、1950年に朝鮮戦争が勃発し、在日コリアンが学んでいた民族学校に廃止令が出されて、彼らも日本の学校で学ぶことになった。1クラスに7人ほど朝鮮人が合流した。成績がいい子はクラスの役員になったり、野球が上手い子がいたり、「表面的な友好関係とか」はできた。「でも、当時の教育は、なぜ多くの朝鮮人が日本にいるのか、船越にいるのかという歴史的なことを教えてくれなかったわけ。だから、やっぱり偏見や差別というのはなくならなかったね」

高校に入学できる朝鮮人は1人ほどで、彼らとの交流はほとんどなくなっていった。仕事や生活が大変で、高校入学する余裕がない。

■教員として「金くんは金くん」でいられる学校を

そんな事情に気づいたのは、教員になってからのことだった。教えていたのは男子校の工業高校で、良い就職をさせたいという親の意向から多くの朝鮮人が入学してきた。彼らは創氏改名の名残から日本人の名前であるものの、外国人登録票を持ってくる。それによって、朝鮮人だということを教員側は知る。

「結局、そういう状況は私の少年時代と変わらない状態で、差別されているから本名が名乗れないわけでしょう。だから、教員の課題として、『金くんは金くん、朴くんは朴くんとしていられるような学校をつくっていくべきじゃないか』と考え始めるわけよ」

■教育視察で韓国へ

1965年、日本と韓国の国交が回復して日韓請求権協定が結ばれてから6年後の1971年に、豊永さんに転機が訪れる。教育視察で韓国へ行くことになった。

出発の前日、宿泊していたホテルでたまたまつけたテレビニュースで、のちに『ヒロシマへ……』に手記を収めることになる崔英順(チェ・ヨンスン)さんが「日本人と同じように広島・長崎で原爆被害を受けながら、なぜわれわれは放置されるのか」と訴えるシーンを目にした。「今からその人たち(在韓被爆者)に会わんといけんなと、自分で決めた」

そのチャンスは、教育視察の最終日、8月15日に訪れた。「日本の終戦記念日でしょ。韓国は逆よ。解放記念日で、仕事が全部休みなんよ」。民泊をしていて、その主人に好きなところへ案内してもらえることになった。「しめた!」と豊永さんは思った。「韓国原爆被害者援護協会へ行きたい」。その事務所へ案内してもらい、初めて在韓被爆者と出会った。「韓国政府からも日本政府からも全く援護が受けられていない」現実を見た。

■在韓被爆者の歴史も知って

1957年に原爆医療法(当時)が制定され、被爆者は、被爆者健康手帳に基づいて医療などの支援が受けられるようになった。しかし、1974年に「健康管理手当は海外に居住した場合に受給権を失う」という通達(2003年に廃止)が出されていたことや、証人が見つからず、被爆したことの証明が難しかったことなどから、在韓被爆者は原爆被害の補償を受けるハードルが高かった。

「そういう風なことはおかしい。なんとか自分たちができることはやらないと。日本人の課題として取り組まなくてはいけないと思ったよね」

だからこそ、豊永さんは、「韓国原爆被害者を救援する市民の会」の広島支部をつくったり、渡航費を集めたり、在韓被爆者への支援を始めた。その中で交流が生まれた在韓被爆者3人の手記を収めて、『ヒロシマへ……』を発刊した。

「在韓被爆者は好き好んで広島・長崎にいたわけじゃないでしょ。日本の植民地政策によって、仕方なしに連れてこられて被爆した。教科書にはないけど、そういうことの実例を、本人たちが書いたものを読めば子どもたちがわかるじゃない。しっかり知ってもらいたい」

日本人以外の被爆者といかに向き合うか。『ヒロシマへ……』に収められた3人の人生は問いかけ続ける。

田村 葉@埼玉(継承活動に取り組む人々をつなぐPJ)

 

 

 

 

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