【つなぐPJ】(広島)4/4(水) ブラジルに生きる被爆者 に取材して〜「在ブラジル被爆者の声」〜

こんにちは、つなぐPJのしのです!

今回は東京を離れて被爆地広島へ。4月3日にピースボートが主催するイベント「ブラジルに生きるヒバクシャ〜在ブラジル被爆者の渡辺淳子さんを迎えて〜」

というイベントに参加しました。そこで証言をされたブラジル在住の被爆者・渡辺淳子さんの証言は力強く彼女の活動に感銘を受けたので当日ピースボートのスタッフの野口さんに協力を得て、翌日お話を聞かせていただけることになりました。

今回はそのレポートです。

(参考URL http://peaceboat.org/26189.html )

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【渡辺淳子(わたなべ・じゅんこ)さんプロフィール】 1942年11月28日生まれ。広島被爆(被爆当時2歳)。ブラジル在住。広島で2歳の時に爆心地より18km地点にて黒い雨を浴びて被爆。1967年に結婚を機にブラジルに移住。38歳で広島に里帰りをした時、両親より被爆者であることを告げられる。2003年にはブラジル被爆者平和協会に入り、現在は理事として携わる。在外・国内被爆者と差別の無い援助を求め、政府との交渉や現地での被爆証言・放射能被害者との交流をしてきた。過去4回、ピースボート「ヒバクシャ地球一周 証言の航海」(通称:おりづるプロジェクト)に参加し世界各地でも被爆証言をしている。

http://peaceboat.org/26189.html より引用>

 

 

渡辺さんのお話:

今回はブラジルに住む被爆者、そして語り部としてお話を伺いました。

以下はそのお話です。

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Q.在ブラジル被爆者の被爆の実態のアンケートを読んで衝撃を受けた渡辺さんですが、アンケートに書かれていたことで印象に残っていることはなんですか?

A.1987年に在ブラジル被爆者約200人に対して実施したアンケートがあり、私が読んだときには紙ももう黄色くなっていました。それを読んだのは60歳を過ぎてから。とにかくその悲惨な実態に衝撃を受けました。それから日本メディアが撮影した被爆直後の広島の街の映像フィルム。そこに映る人たちの感情、表情が切なくて。60歳まで私は何をやっていたんだ!と何も知らなかったことを思い知らされました。知ったからにはそっぽ向けない、伝えることに責任があると思いました。

 

 

Q.ピースボートで世界を回って証言をして来た渡辺さんですが、国によって反応は違いますか?

A.どこに行っても私の目を見て話を聞いてくれます。ブラジルの子は感情を出します。質問がすごいですが、質問があることは聞いている証拠です。

 

2010年、NPT再検討会議の年、私はアメリカで証言する機会がありました。証言するときはいつも期待と不安でいっぱいです。それがましてや原爆を落としたアメリカですから…。私が証言を終えた後、ある1人のアメリカ人男性が私に声をかけました。

「ごめんなさい。私はベトナムに行ってたくさんの人を殺しました。」

というのです。私は

「あなたがごめんということはない。自分がやりたくもないことをやるのが戦争です。」

と言って2人で抱き合って泣いたこともありました。

 世界の人はみんな平和を望んでいます。とにかく戦争をしないことが大切で、そうなりそうになったら会って話し合うことが一番です。

一人一人ができることをやっていくこと。私たちには被爆証言を語ることしかないんです。

 ブラジルで証言をすると生徒から

「私たちに何ができますか?」

と質問を受けます。

「あなたが困ったときどうしたいと思う?周りの人と話してごらん。それが平和の第一歩じゃないの?」

最近はそう言うようになりました。

 

 今回のクルーズで思ったことですが今の若い日本人、特に男の子はシャイですね。ピースボート内ですれ違う時も下を向いて通り過ぎるんです。日本の未来を担う若者なのでもっと頑張って欲しいですね。

 

 

Q.体験を残す人、残さない人といますが、その違いはなんだと思いますか?

A.ひどい現場を直接見た人は辛すぎて話せません。私の父も親戚を探して市内をずっと歩いたそうですが、私がそれを聞いたのはこうした活動を始めた後で、私が65歳の時でした。父は市内がめちゃくちゃになった状態を手帳に書いて残していて、私はそれが欲しいと思っていたのですが父が亡くなった後その手帳は遺品の中にはありませんでした。

話したくないんじゃなくて、話せないんです。

 

 2008年、ピースボートの第一回おりづるプロジェクトで103人の被爆者が乗船し、私もその中の1人でした。私が話をした後「あんたは!」と指をさして怒られたんです。「あんときのにおいがわかるか!」って。

そのときは嫌な気持ちがしましたけど、実際に体験した本人にしか言えない、見てないことがある。それどう伝えるかが2歳で被爆して被爆証言をする私の葛藤です。

 記憶のある被爆者がいなくなったとき、それがどのように伝えられるのか不安に思います。

 

 

Q.被爆者の心の傷はどのようにケアすれば良いでしょうか?

A.これは難しい、いつまでも心の傷は残るから。

ショックだったことは、親戚に

「淳子は何も(被爆者だということを)言わずに結婚した。」

と言われたことです。不具の子を産んだ訳でも、家族に迷惑をかけた訳でもないのに!

差別。これが一番怖いですね。

日本だけじゃない、グローバルな被爆者に共通して言えることです。その人に責任がないのに誰がそうしたの?差別した側も決して被害者にならないとは言い切れないのに。

 

 

Q.渡辺さんの継承・証言活動について家族はどう思っていますか?

A.家族の理解があるからこそ、こうした活動ができます。協会に携わって16年、証言やパソコン作業など日々色々なことをやっています。

 

 

Q.次の世代に一番伝えたいこと、方法はどうすれば良いと思いますか?

A.できることをできる者がやっていくことです。

記憶のある生きている被爆者が声を届けることが今は一番大切ですね。

テクノロジーの発達に乗せて発信するという方法もあるでしょう。

とにかく今生きている人の声、証言を撮っておく。それは貴重な肉声です。

草の根的な活動になると思いますが、その活動が大切なんです。

 

最近ではブラジルで被爆者の証言を漫画で残す活動も始まっています。

 

 

 

■お話を聞いて

渡辺さんは2歳で被爆して25歳でブラジルに花嫁渡航をするまで家族や友人と原爆の話をすることがあまりありせんでした。被爆して黒い雨に打たれた後から原因不明のひどい下痢が続いて食べたのもの受け付けず家族が死を覚悟したほどだったという状況があったことを母親から聞いたのは彼女が65歳の時です。

1984年、在ブラジル原爆被爆者協会(現ブラジル被爆者平和協会 http://www.100nen.com.br/ja/genbaku/ )が設立されて、60歳を過ぎてからその協会を手伝う中で被爆の実態を知り、日本だけでなく世界中で被爆やその差別に苦しむ人々のために証言を始めます。2歳で記憶のない被爆体験を語るということに関して、記憶がないという引け目と葛藤しながら語り続けてきました。

被爆した時の記憶のある被爆者と接することで記憶がないながらもその人たちの感情、記憶、表情を自分の中に取り込み平和な世界を祈りながら語る彼女の表情からは強いメッセージを多くの人が受け取るでしょう。私もその中の1人でした。

「涙が出なくなったら語れない」という彼女の目は多くの被爆者の心を映しています。

それはブラジルで語るときは通訳を付けず、自分の伝えられる限りの言葉で気持ちを伝えるという姿勢にも現れていると思います。

「生の被爆者の声を聞くことが一番大切。たくさんの人に今聞いてほしい。」という彼女のメッセージ、このブログを読んだみなさんもぜひ考えてみてください。

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お話いただいた渡辺さん、ありがとうございました!

 

 

しの(つなぐPJ@継承活動に取り組む人々をつなぐPJ)

 

 

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