【つなぐPJ】(埼玉)3/25(日) 被爆者のお茶と茶話会 に参加して〜「顔の判らない兄と逃げた街」〜

20180325茶話会1

こんにちは、つなぐPJのしのです!

コーププラザ浦和で開催された「被爆者のお話と茶話会」に参加しました。木内さん(9歳、1.6kmで被爆)からお話をお聞きしました。参加者は7名。

 

被爆者のお話と茶話会

 

日時:2018年3月25日(日)

語り部:木内恭子(きうちゆきこ)さん 82歳

20180325茶話会2

企画:未来につなぐ被爆の記憶データ化プロジェクト

司会進行:中尾詩織さん

参加者:7名

 

木内さんのお話:

■経歴

府中で生まれた木内さんは、法務省勤めのお父さんの関係で全国の転勤について回り広島に住んでいた時に原子爆弾を落とされ被爆しました。

現在は関東に戻り埼玉県原爆被害者協議会(しらさぎ会)で活動しています。

■その日のお話

今平和公園があるあたりが中島というところでした。

私は中島小学校の四年生。その頃戦争が末期的な状態で、日本各地で空襲をされていたにも関わらず広島は一度の空襲も受けたことがありませんでした。

『広島は良い街だから最後まで空襲をしないで置いておく。』

といった旨のビラが時々道路に落ちていました。私たちがそれを拾ってくると親たちは

「時限爆弾がそこに仕掛けてあるかもしれないから早く捨てなさい!!」

と言っていました。そんな怖いものも落とされていましたが実際被害はなく穏やかな日を送っていました。

 

前日も本当に穏やかな日でした。

広島市内から1.6km南の吉島町に広島刑務所というのがあるのですが、父の仕事の関係でその刑務所の内にある官舎で家族一緒に暮らしていました。私の家は8人家族で、長女は師範学校に行っていて、次の姉は広島の看護学校に行き、長兄は軍需工場に行っていました。家には父・母・弟・私・6年生の兄がいました。

8月6日、朝は一緒にいつも通り食事をしました。そしてその後ラジオで空襲警報が流れました。

それは岡山の上空から広島の上空にB-29戦闘機が向かったということでした。

これは大変だということで家族一緒に避難したのですが、すぐに空襲警報解除になって警戒警報も解除になりました。私たち兄弟は登校することになりました。

そうするとどうするか。

当時夏だったけど夏休みはありませんでした。

学童疎開、縁故疎開、建物疎開といって小さい子供は危険な所から避けるような状態がありました。

中島小学校本校に行くのは5,6年生だけで、それより下は家に近い分校に通っていました。

私は4年生だったので分校。そこがお風呂屋さんだったんです。兄は本校の方に行きました。

私は8:10前くらいに分校に着きました。兄はまだ歩いて学校に向かっていました。

私は分校について脱衣場のカゴにランドセルを入れて外に出て、学校の友達6、7人と遊んでいました。

石蹴り遊びが始まりました。

男の子たちはお風呂屋さん広い浴槽が空いていたのでその中で暴れ回っていました。

その石蹴りが始まって間もない頃突然

 

ピカッ

 

光ったんです。

それで私は気絶してわからない状態になりました。

 

息苦しい状態で目を覚ましてじっと目を凝らしたんですが真っ暗な状態です。

爆風で広島全体が真っ暗になったんですね。とっても苦しかったんですが生き返ったのです。

真っ暗なのでじーっと、じーっとしていると夜が明けるように周りの景色が見えてきました。

さらにじーっとしていると今までお友達と遊んでいた状況は全くなくて、お友達が1人もいない。

前も横も後ろの家もお風呂屋さんも全部潰れて私だけが瓦礫の上でひょこんとお座りしてたんです。嘘みたいでしょう。

 

周りの建物はみんな潰れていました。

私の身体は頭と足のくるぶしに大きなコブができていました。これは何が起こったんだろう?とそのまま座り込んでいるとやがて倒れた建物から人がムクムクと出てきたんです。そして歩き出しました。

「助けて〜助けて〜」

朝鮮の方達が周りに住んでいたので、その人たちは

「アイゴーアイゴー」

と言って泣き叫びながら出て来ました。

みんな顔は血だらけ、衣服は引きちぎれたボロボロの姿でした。

何が何だか、何が起こったのか全くわからずこんな人ばかりでもこんな人についていけば何とかなるだろうと私も歩いていくことにしました。人の流れについて歩いて行っていました。

人の流れは中心部から川沿いに吉島飛行場の方に流れていっていましたがこれはあとでわかったことで、方角は私には全くわからずただ人の波に流されていました。

途中、この流れの中に一人の男の人が「ゆっこ!」と声をかけて手を握ってきました。

顔は大きく腫れあがって真っ黒。服も焼けているので、誰だか分からないけど、私の名前を呼ばれたので私のことを知っている人だと思い手をつないでひたすら歩きました。

実はそれが兄だったんです。高い刑務所のコンクリート塀が見えてきて、手を握ってたその人が「門番さん、入れてー」と叫ぶと門番さんが扉を開けて入れてくれました。

「貞雄君かい?」

その時はじめて、それが朝一緒に登校した兄だとわかりました。

火傷で顔がはれあがり、全く別人に見えたんです。

一緒にいた人たちも中に入れてくれと言っていたが、誰一人として入れてくれませんでした。

門番さんも火傷していました。詰所の火鉢の灰を油と混ぜて兄の火傷にも塗って、そして塗りあっていました。

いちばん心配していた母は子どもが学校に出た後、弟を連れ医務課長さんのお宅にお花の種をいただきに行き、玄関を開けたところでピカッという光を感じ気がつくと家が潰れていたそうです。弟は爆風で吹き飛ばされ、奥の八畳間に爆風で持ち上がった畳の下になっていました。弟を助け出し抱いて表に出たところで私に出会いました。

母は全身にガラスが刺さった状態でした。刑務所内にはすぐに治療病舎ができて、執務中の父は大腿骨骨折、火傷の兄はここに入れられました。

弟の顔の切れたところは麻酔なしで縫いました。

その時嗅いだ火傷の腐った匂いは強烈で、今嗅いでもすぐにわかるでしょうね。

その頃には市内は火の海となっていました。

私たち家族の官舎も皆潰れ、毎日野宿し、市内は何日燃え続けたかわかりません。

火事がおさまると刑務所から広島駅が一直線で見えるようになっていました。

刑務所の前の川(本川)は、どこのだれかもわからない、真っ黒に焼け焦げふくれあがった人たちが、潮の満ち引きに揺られながらたくさん浮かんでいました。

刑務所の囚人さんがその人たちの引き揚げ作業をしていて、引き揚げられた人たちは役所の中の焼却場で焼かれていました。それが何日続いたのでしょうね。

私たち家族は官舎が建つまでは野宿でしたが、集団の中で保護されて生活できたのが幸いでした。でも街の人たちは水も薬もない中で亡くなっていきました。

 

忘れられないのがあの日のこと、亡くなった同級生の安藤秀男君のことです。秀男君は庶務課長の息子さんでした。

野宿の何日目かに、秀男君のお父さんが来て

「お嬢ちゃん、秀男が帰って来ないんだよ。」

死んだとわかってもどうしてもあのお風呂屋さんに探しに行きたいからと頼まれお風呂屋さんまで案内しました。

私は囚人さんにおんぶされてお父さんとお風呂屋さんと思しき焼け跡に行きました。

焼け跡までは熱くて、何回も熱い長靴を防火用水の中に入れ、また歩いたほどです。

「あった!」

スコップで焼け跡を掘るとたくさんの骨が出てきました。その辺りは骨だらけ。他には何もないんです。

何があったかと思ったらお父さんが秀男君に入学時お祝いにあげた渡した切り出しナイフ。

(それは違う)

それはカバンを置いていた場所で、本人は浴場で暴れ回ってた。

でも言えなかった。

あの時のショックのせいかその時一緒にいたはずの人たちのことを全く思い出せません。

 

■その後

外傷はなくても、内部にはたくさん放射能を受けて不安はずっとあります。

大学進学を考えた時、人助けのできる看護師になる学校を選びました。

その後は何事もなく恵まれて過ごしていますが、その時のおでこのこぶは触るとまだ固いです。

 

 

■お話を聞いて

木内さんのお話を聞いて若い世代は中心に集まった会場からはいくつか質問が飛び出しました。

 

Q. 原爆で変わったことはありますか?

A. 人のためになるように看護学校に行こうと思いました。楽しいだけの大学には行かない。親の生活も助けて行かなくてはという思いもありました。

50年後、初めて広島平和式典に出席しました。

 

Q. 若い人たちへメッセージはありますか?

A 私は恵まれすぎていたけど、戦争は二度と繰り返されてはいけません。

苦労した経験から甘く若い人を育てすぎてきちゃった現在、今は恵まれすぎていると思います。

自分にとってこの平和が奪われたらどうなるだろう、戦争になったら…ということを考えて生活してほしいです。

 

Q. 大切なものを知るためにはどうしたらいいでしょう。

A. 体験を話し、沢山の人々に伝える場を多く作ることです。小学校なら先生と協力してプロジェクトを作るとか、何かそういった形で次の世代に伝えることのできる取り組みを考えています。紙芝居なんかもいいですね。

 

■参加者の感想

「直前のことまで覚えているのがすごいですね、お兄さんの顔もわからなかったことが印象的です。」

「何万人の命を”運”で片付けたくないと思いました。」

「受刑者の人との暮らし、慰問、そこへ落とされた原爆のむごさは印象に残りました。

「当時を思い出して言葉につまる姿を見てグッと来るものがありあました」

「貴重な証言を残すお手伝いをしていきたい」などの声が寄せられていました。

 

お話いただいた木内さん、ありがとうございました!

 しの(継承活動に取り組む人々をつなぐPJ)

 

*全国各地にて継承活動に取り組む方々を当会が取材し、上記のWebサイトにてインタビューやレポート記事の形式で掲載していくプロジェクトです。ライターとして協力いただけるボランティア募集中。 これまでの取材記事、ボランティアの募集要項はこちら

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