【つなぐPJ】(広島)2017.8「証言のつどい」を取材して ~生の言葉で知る“原爆”~

平和記念式典が執り行われた2017年8月6日、「原爆被害者8・6証言のつどい」に参加した。このつどいは、被爆者の医療福祉相談を受ける目的で、ソーシャルワーカーを中心に発足した「原爆被害者相談員の会」が主催し、今年で36回目を迎える。

まず、少人数のグループに分かれ、被爆者の証言を聞き交流する時間が設けられた。私は、吉本トミエさんのグループに参加。

 

吉本さんは1945年8月6日、爆心地から約1.2kmの地点にいた母親の胎内で被爆(翌年2月に誕生)。生まれつき病弱で、右足が不自由だった。「足の障害は原爆の影響によるものかもしれない」そう告げられたのは20歳の時だったと言う。足を痛め病院に行った時のこと、医師が障害と原爆の因果関係に触れた。その後、障害をもつ子と親が集まり結成された「きのこ会※1」の働きかけもあり、1967年、吉本さんは「原爆小頭症※2」の認定を受ける。

障害のため、親戚からは距離を取られ、学校ではいじめられた。5歳下の妹は、足をひきずる自分をかばい事故死した。妹を可愛がっていた母はショックからか、吉本さんが中学2年生の時に家を出た。こうした出来事の背景に原爆があったのだ。

「小頭症だと認めたくなかった。」

全てを捨て知らないところに行ってしまいたいと、認定から2カ月後、吉本さんは生活の拠点を大阪へと移した。

 .jpg証言のつどい-2

 

吉本さんがこうして証言を始めたのは、2015年のこと。なぜ語るようになったのか。参加者に向けてこんな思いを話してくださった。

「戦争がなかったら違う人生があったのではないかと思うこともある。だけど(原爆を)受けたことに変わりはない。苦しいことや悩むこともあるけど、それに立ち向かっていかないとー」

 

吉本さんは、ご自身のことを「一番若い被爆者」とおっしゃっていた。「だからこそ(証言活動を)頑張っていかないと。」と。原爆は母親のお腹に宿る命にまで容赦なく襲いかかった。「生まれながらの被爆者」を生み、その人生に癒えない傷を残していた。今回の証言を振り返りながら、その言葉の重さを、今一度噛みしめている。

昨年8月に聞いたこのお話。今まで文字にできなかったのは、そのあまりの壮絶さに「たった1度聞いただけの私が書いていいのだろうか」という葛藤がずっとあったからだ。だが、吉本さんの「立ち向かう」という強い言葉に後押しされる形で、そして、私自身初めて知った

「原爆投下時には生まれていなかった命が、72年の歳月を“被爆者”として生きてきた」

この事実を何らかの形で伝えることができればと思い、書き上げた。

 

2017年「証言のつどい」には、10数名の被爆者の方が参加された。身体の不調をおして、会場に来られた方も多かったそうだ。被爆者と私たちが一緒に過ごせる時間は、残念ながら限りがある。私自身、広島から帰ってきた直後、親しくしてもらっていた長崎の被爆者との別れを経験した。

今なお核兵器の存在する社会で生きる私たちが、「核が人間に何をもたらしたのか」その実相を、被爆者の生の言葉で知るという経験は、大きな意味があるのではないだろうか。知ったことを後世に継いでいくことも含め。限りある時間の中で、1人でも多くの人にこの経験をしてもらいたい。自身のまわりでも「証言のつどい」のような場を設けていければ、と強く思った。

 

 

※1 きのこ会(原爆小頭症の被爆者と家族の会):facebook(https://www.facebook.com/kinokokai/

※2 原爆小頭症:放射線の影響を受けやすいとされる胎児の時期に被爆したことで発症する、原爆後障害の1つ。“小頭症”の名のとおり頭囲が小さく、ほとんどの人が知能あるいは身体の障害をもつ。

中尾(継承活動に取り組む人々をつなぐPJ)

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