【東京】12/2(土)ICANノーベル平和賞授賞式を前に、パネルディスカッション開催 「“核兵器なくせ”にノーベル平和賞―世界を動かした被爆者の声と若い力をさらに」

昨年12月10日のICANノーベル平和賞授賞式を前にした2日(土)、ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会が主催して、表記パネルディスカッションを開きました。(東京・四ツ谷、プラザエフ9階「スズラン」)

7月の核兵器禁止条約採択とICANの受賞の報を受けて、10月の理事会で発案。被爆者の証言や訴えがどのように若い人を巻き込み、世界を動かし、禁止条約採択に至ったのか、そして、長年にわたって原爆被害の反人間性を証言し「核兵器なくせ」と運動しつづけてきた被爆者の経験・知恵と世界に発信する若い力との協働をどのように発展させていくのかを、ともに学び、考え合おうと企画したものです。

まず、岩佐幹三代表理事の主催者あいさつにつづき、3人のパネリストが問題提起をしました。

川崎哲さん(ICAN国際運営委員、ピースボート共同代表)は、今回の平和賞について、核兵器廃絶に力を尽くしてきた全ての人々への賞であり、被爆者の運動が核兵器の全面的な禁止と完全廃絶への道筋をつけた禁止条約の下半分の土台=非人道性に対するつよい認識=をつくりあげ、上半分の法的・技術的な側面は、軍縮・軍備撤廃を求めてきた反核・平和運動と、対人地雷やクラスター爆弾禁止条約を実現してきた人権・人道法の二つの流れがつくりあげてきた。ここをスタートに、よい条約を活かすためにがんばりなさい、というものだと位置づけました。

そのうえで、2008年以降、ピースボートの「おりづるプロジェクト」で、世界で被爆者が話をし、各地の戦争被害を学びながら、被爆者のメッセージを政治や地元のNGO、国会議員らとつないできた活動をふまえ、日本が経験してきた被害を伝える国際運動からともに何かをつくる国際運動への発展――具体的には、禁止条約にまったく後ろ向きな被爆国政府の姿勢や、高校生平和大使の発言への中国政府の反発にみる第二次世界大戦での加害を反省していない日本への批判、という2つの矛盾を克服しながら世界の人々とともにつくり出していくことが課題だ、と指摘しました。

直野章子さん(広島市立大学広島平和研究所教授)は、平和賞を、ふたたび被爆者をつくるな、あなたを被爆者にしたくない、と国際社会を動かしてきた被爆者と、若い力で被爆者の声がより多くの人たちに届く場をつくってくれたICANとの共同受賞だととらえ、被爆者が自らの体験を語るのは当たり前と思われているかもしれないが、それがどれほど大変なことか、〈地獄〉という言葉でしか表せない想像を超えた状況と、その記憶に今でも突如としてひきもどされる被爆者たちの苦しみを紹介して、次のように語りました。

被爆者たちは、それでも生きることを選び、ふたたび被爆者をつくらないために原爆被害とはどんなものかを同伴者とともに明らかにし、自らが生きるため、人間として生きることを許されなかった死者たちのため、そして未来を生きる人たちが同じ目にあわないために被害への国の償いを求めてきました。原爆がもたらした被害を究明し、米日政府の責任を追及し、再発防止の砦をつくる運動を、日本被団協の結成時に「自らを救うとともに、私たちの体験をつうじて人類の危機を救おう」と誓った「世界への挨拶」から60年以上もつづけ、戦後責任を果たしてきました。

やがて、被爆者にだけ頼ることのできない日は確実にきます。しかし私たちは、被爆者がたたかいながら獲得してきた“ふたたび被爆者をつくらない”という思想を、自らの生存にかかわる信念として受け継ぐことはできます。私たちも核時代に生きる「当事者」なのですから。

木戸季市さん(日本被団協事務局長)は、5歳7か月のとき長崎の旭町(爆心から2㎞)で母と共に被爆。自身や家族の被爆状況と、浦上川西岸をかごにのせられて避難したときのもようを、終戦直後に三姉・昭代さんが書いた手紙(鹿児島に嫁いだ長姉宛)と長崎市の被災状況地図を用いながら語りました。

自身が「被爆者」だと意識したのは、占領が終わり原爆の影響が知られ始めた1952年ころ。不安と恐怖にかられ、高校時代には先生から広島・長崎以外では被爆者と言ってはならないと諭されもしました。それでも、「人類に課せられたどんな困難な問題でも、解決できない問題はない」という言葉を知って、人間は原爆に勝つと信じ、幼い時ではあったが「被爆の記憶のある世代として、いつか何かをやらなければならない時が来る」と予感していた、といいます。

その「時」は1991年、全国で唯一被爆者の組織がなかった岐阜県に会が再建されたときにやってきました。県被団協の事務局長から日本被団協の代表理事、事務局次長をへて、今年(2017年)事務局長に就任。この間に、原爆被害や被爆者の要求・運動について、多くの先輩被爆者に教えられ学びながら「被爆者になってきた」と述べました。

「原爆被害者の基本要求」の実現を求め、核戦争を起こさせない仕組みをつくることを自分の生き方として選ぶことが自らを救うことになる。「被爆者になる」とは、被爆者としての生き方を見出すことだった、という木戸さんのことばは、直野さんの提言とも重なって、体験のない私たちが核時代に生きる人間の生き方を見出していくためのヒントを与えてくれたように思います。

休憩をはさんで後半は、会場をほぼ埋めつくした約90人の参加者(愛知、兵庫、石川、広島、愛媛など遠方からの参加者を含む)が熱心に討論に加わりました。

なかでも、被爆国の政府でありながら禁止条約に署名しようとしない日本政府への批判や意見が集中し、日本政府が反対していることが全然知られていない。まずはその事実を多くの人々に伝えること(川崎)、日本政府に署名しろという運動を中央でもローカルでもくり広げていく必要が強調されました。

また、原爆被害への償いをめぐっては、戦争をしても誰も責任をとらない国家の無責任さ(大久保弁護士)が指摘され、核戦争を拒否する国民の権利として、核兵器禁止条約に署名しろ、憲法9条を守れ、と求めるなど、多様なあり方が検討されてよいのではないか(直野)、禁止条約には核兵器の使用を戦争犯罪だとする国際法の発展があり、6・7条では賠償責任ではないものの、人道法の見地から締約国・使用した国の被害者に対する援助等が定められており、今後どのように実行していくかが議論されていく(川崎)、といった意見も出されました。

パネルディスカッションでは、これまでの日本被団協の国際活動の概要を伝える資料も作成し配布しました(当日資料は継承ブログで見られます)。核禁条約や平和賞をめぐる報道などで、「広島・長崎の被爆者」の貢献についてはふれられても、日本被団協をはじめとする全国の被爆者運動についてはまだまだ知られていないのが実情です。被爆者たちの死と生、たたかいの軌跡に学び、それを伝える継承する会の役割の大きさをあらためて痛感させられました。

当日資料は以下のPDFファイルをご覧ください

2017-12-02パネル 資料集_Web公開用

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