【つなぐPJ】(東京)7/17(月)江戸川区原爆犠牲者追悼式 ―東京の地で築く平和―

7月17日、葛西区民館ホールで「江戸川区原爆犠牲者追悼式」が開催された。今年で37回目となるこの追悼式には、例年、区内外の被爆者はもちろん一般市民も多数参加しているという。

この日も開場の時間になると、続々と参加者がやってきた。しかも世代が幅広い。子供と一緒に来ている方や、千羽鶴を持った生徒たちの姿も見受けられた。

 

ロビーには被爆直後の広島・長崎の様子を伝える写真の展示。また、折り紙が置いてあるスペースがあり、参加者が歓談しながら鶴を折っていた。江戸川区在住の被爆者で成る「親江会」がデザインした折り紙で折った鶴で、千羽鶴を作り献納するのだそうだ。

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約200名の人でホールが埋まる中、追悼式が始まった。

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  1. 開会あいさつ:江戸川区原爆被害者の会(親江会)会長 奥田豊治さん

今年87歳になる奥田さんは、中学4年生の時に広島で入市被爆した。「1つお願いがあります。」と参加者に訴えた。

「私ども、広島・長崎の被爆者も17万4千人になりました。もう半分以下です。平均年齢も80歳を超えました。そこで私ども被爆者が最後のお願いとして、核兵器廃絶国際署名を始めました。追悼碑を作った時にもう一度立ち返って、被爆者だけではない、大勢の皆さまとこの署名を進めていきたい。核兵器はなければ使いません。私たちが広島・長崎で、実際に味わった、見た、臭ったあのようなことを、再び世界中のどこにも起こしてはならないし、自分たちの孫にも、ひ孫にも味あわせたくない。そのためには、核兵器をなくすということしかない。あれば誰かが使います。核を持つ、アメリカやロシアといった国々にも訴え、本当の意味での核のない世界を作り上げたいと思っていますので、この署名にぜひご賛同いただければと思います。私たちの気持ちを次の世代に伝えていきたいと思っております。」

 

2. 犠牲者名簿奉安

3. 黙祷

4. 挨拶

江戸川区長 多田正見氏

江戸川区議会議長 藤澤進一氏

広島市長 松井一實氏(代読)

長崎市長 田上富久氏(代読)

東友会理事 湊武氏

5. 千羽鶴献納名簿発表

 

6. 被爆体験発表

■山本宏さん(小学2年生の時に広島で被爆)

1945年8月6日、その日もいつもと変わらないのどかな朝だったという。ただ朝から警戒警報のサイレンが鳴ったため、学校に行くかどうか、同じ班の者と相談していた。その時、ピカッと閃光が走った。8時15分、広島に原爆が投下されたのだ。

「閃光に目をやられたからか、数秒後には世の中真っ暗になっていました。何があったのだ。さっき警戒警報が鳴っていたからか。だが道路や近所の家の様子が違う。朝なのに、ほこり・煙で夜のようだ。」

突然の辺りの変化に恐怖を覚えながらも、家族のことが気になった宏さんは自宅に向かった。広島市己斐町にあった自宅は、爆風で見る影もなくなっていた。

「母がいた。倒れた水屋の陰の斜めの隙間から、授乳中だったらしく乳飲み子の弟を抱え這い出てきた。顔が血まみれだ。妹が帰ってきた。友達の家に行っていたが、大きな怪我はない。祖父や祖母は家の家具の下敷きになっていた。皆でひっぱり出しました。全員血まみれでした。」

家にいた家族を助け出し、一家は自宅近くの防空壕へ避難する。その道中で宏さんは市内から逃げてくる人々を目にした。

「防空壕へ避難する途中、逃れてくる人々とすれ違いましたが、生きた人間のようには到底見えない。全身ほとんど裸の状態で、皆幽霊のように両手を前に出し、手や腰からボロをぶら下げてぞろぞろと歩いて小学校のほうへ避難していたのでした。ボロだと思ったものは、焼きただれた皮膚が手や腰からぶら下がっていたのでした。」

やっとのことで避難し、そこで初めて、自分もやけどをしていることに気付いた宏さん。後ろからの閃光で後頭部は水ぶくれになり、まるで頭が2つあるかのようだったと言う。腕にもやけどがあった。

「3、4日するとただれ、膿みはじめ、ハエが卵を産んだらしく、首や後頭部からウジ虫が動き出しました。その痛いこと、筆舌に表せない痛さでした。右耳のただれた皮膚が当たり、ぼろぼろ落ちて骨だけになりました。」

公の場で講話をするのは、これが初めてだという宏さん。話をしようと思ったきっかけは、何だったのだろうか。

「先日70年ぶりに被爆した場所に行ってみました。バイパス道路ができていて、あれほど鮮明な記憶だったのに場所の特定ができませんでした。このことがきっかけで、トラウマになった被爆体験を今話しておかないと、全て消えてしまうと思い発表することにしました。」

だが、70年以上が経っても、当時通っていた小学校を訪れることはできなかった。

「(小学校の校庭に)大きな穴が5つも6つも掘ってあり、遺体と薪を積み上げて焼いていました。白い煙が漂い、吐き気をもよおすあの臭い。来る日も来る日も町中から臭っていました。」

何度も夢に出てきたという、この光景。思い出したくないし、この出来事を彷彿させる小学校には行きたくないという。

 

■山本和子さん(2歳の時に広島で被爆)

今年1月に闘病の末、逝去された和子さんに代わり、夫・宏さんが被爆体験を伝えてくださった。

和子さんが被爆したのは2歳6カ月の時。自宅の窓ガラスが突き刺さり、家族が血まみれになった記憶がかすかにあった。この時、和子さんにもガラスの破片が刺さっていた。何十年も経ってから皮膚の下に潜んでいたことが分かり、非常に驚いたという。

原爆投下の翌日には、叔母たちの安否を心配した両親と、叔母の嫁ぎ先であった堀川町に向かう。爆心地近くを通ったその道程は、幼い和子さんに強烈な印象を刻んだようで、「まるで地獄絵そのものだった」と話していたそうだ。

和子さんの自宅近くには小学校があり、多くの遺体を火葬していた。この火葬する臭いは、自宅にも染みつき、何年経ってもなかなか消えることはなかった。

宏さんと和子さんが結婚された後、2003年、和子さんに最初の癌が見つかる。数年して再発し、原爆症の認定を受ける。その後も、数年ごとに再発、繰り返した手術は5回に及んだ。何度も前向きに治療を続けた和子さんだったが、2017年1月ご逝去。

 

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被爆体験を話す山本宏さん

 

原爆投下時の様子を語り始めた山本さんは、「ピカッとー」という言葉を発した後、言葉を詰まらせた。「その当時のことを思い出してしまい、話せなくなってしまった」と講話を終えた宏さんはおっしゃっていた。和子さんも「何年経っても鳥肌が立つ」と、生前、被爆体験を語ることはほとんどなかったそうだ。72年の歳月が経ってもなお、被爆者の心には癒えぬ傷があることを痛感した。そして、その傷をおして被爆体験を伝えてくださることに、強い平和への想いを感じた。この想いをいかに受け止め、次の世代につないでいくか。被爆者、そして非被爆者である私たちとで、共に考えていきたい。

 

7. 若い世代より

江戸川区内の中学生・高校生による平和に関する作文の発表

 

8. 献花

滝野公園へ場所を移し、江戸川原爆犠牲者追悼碑へ献花を行った。

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今から36年前の1981年、3つのお寺の住職、そして親江会の会員たちが中心となり、思想・信条・政党・宗派を越えて平和の誓いができる追悼碑を建立しようと考えた。この輪は、区内の被爆者はもちろん、宗教関係者、教育関係者へと広がっていく。一般市民からの協力も厚く、数千人から寄せられた募金は442万円にものぼったそうだ。同年7月、当時の江戸川区長・中里喜一氏の尽力もあり、江戸川区立滝野公園に追悼碑が建立される。たくさんの人々の想いが集まって生まれた碑だった。

 

追悼碑に刻んである絵は『原爆の図』で知られる丸木位里・俊夫妻が下絵を描いたものだ。40日をかけ、子供から大人まで多数の参加者がひとノミずつ彫っていった。

また、追悼碑のまわりには広島・長崎両市から寄贈された「原爆瓦の碑」があったり、広島市の「クスノキ」、長崎の「ナンキンハゼ」が植えられていたりと、被爆地とのつながりを強く感じられる場ともなっている。

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献花後、親江会の会長 奥田豊治さんにお話を伺った。奥田さんは、江戸川区ではもちろん、都内外でも精力的に活動を続けてこられた。数年前からお付き合いがあるが、60歳下の私が負けてしまうのではと思うほど、エネルギーに溢れたお方だ。私たち次世代の活動を見守り、応援してくださっている。

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Q. 37回目の追悼式だが、活動を継続する上での原動力は?

追悼碑や追悼式を作り上げてきた人々の想い。はじめは3人の住職さんから始まり、それが被爆者へと、またそれ以外の人々へとつながっていった。こうした大勢の人たちとのつながりに支えられて、活動をやってきました。

 

Q. 次の世代へのメッセージ

広島・長崎に直接行ってみてほしい。そこでしか、感じられないことがあると思う。

そして何より、原爆や核兵器について「自分のこととして」考えてみてほしい。自分の家族が、子供が、孫がこんな目にあったらどうだろうか。

日本は今「核の傘」の下にいるが、この状況を変えていくのも1人1人の意識の問題です。例えば、選挙での自分の1票が日本の将来を変えるかもしれない。そんな自覚を持ってもらいたいと思います。

 

 

都内の追悼式に参加したのはこれが初めてだったが、参加者の多さ、そして世代の幅広さに驚いた。被爆者はもちろん、江戸川区長や区議、中学生や高校生が集って、自身の想いを語り、平和について考える。そのような場が、東京にもあること。これは、その地で活動を継続してこられた被爆者の方々の、努力の賜物だと感じた。

「原爆」というと「広島」「長崎」に結び付きがちだが、被爆者の組織・団体は各地にあり、それぞれに活動を続けられている。その一方で、高齢化に伴う解散を耳にすることも年々増えてきた。被爆者から次世代へ、直接想いを受け継げる場も、将来的に減っていくことは避けられない。そんな過渡期に差し掛かった今、各地の活動に被爆体験のない世代が足を運ぶことは、大きな意味を持つのではないだろうか。自分の住む街でもそのような場がないか、ぜひ目を向けてほしい。被爆者の方々の顔を見て、話を聞き、言葉を交わすことから「継承」は始められると思う。

 

中尾(継承活動に取り組む人々をつなぐPJ)

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