【つなぐPJ】(東京)12/10(土) 国立市伝承講話を取材して 〜「被爆3世の伝える原爆」〜

みなさんこんにちは、つなぐPJのしのです!

今回は国立市が定期開催している原爆体験伝承者講話の取材に伺いました。

この取り組みはお亡くなりになった佐藤一夫市長が、戦争を忘れないようにとの強い熱意で始められた平和事業の一つで、今では国立市の平和事業へ他の地域から足を運ぶまでいるほどこの事業は大切にされています。

 

「くにたち原爆体験伝承者講話」定期開催の取り組み

http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/shisei/unei/peace/genbakutaikendenshosha/1478234873191.html

 

その中でも今回は社会人3年目、長崎の被爆3世である伝承者の中尾詩織さんが講話をされました。

中尾さんが継承するのは同じく長崎で被爆された桂茂之さんの被爆体験です。

 

桂茂之さんの被爆体験(国立市HPより)

http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/5/katsura.pdf

 

  1. 公民館訪問

国立市の朝は空気が澄んでいて、JR国立駅から国道145号線を南西に下るとくっきりと顔を出した富士山と鉢合わせしました。

 

国立1

 

そのまま4分ほど歩くと目的の公民館が左手に見えます。今回は初めて公民館に足を運びましたが、貼り出された掲示物は原爆の伝承やシベリア抑留を知るためのイベントなど戦争体験を引き継いで行こうとする市の姿勢がそこだけでも良く見て取れました。エントランスのガラス戸を入ると出迎えてくださったスタッフの方から会場まで案内していただき、今しがた講話を始めたばかりだという中尾詩織さんと目で挨拶を交わし腰を下ろしました。会場にはざっと見ただけで大学生から定年後の方まで年齢がばらばらな方々が15人ほどいらっしゃいます。会場の前方にはプロジェクターが広げられ、スライドが映し出されていまいた。

 

2. 桂茂之さんの原爆体験継承

中尾詩織さん

中尾詩織さん

 

スライドは長崎の食べ物や風景の紹介から始まり、71年前に原爆を落とされた長崎の写真に写っていきました。長崎で育ち、それが当たり前だと思っていたけれど、東京に来て違いに危機感を持ち桂茂之さんと出会って体験を引き継ぐことにしましたと経緯を語る中尾さん。

 

スライドではその時代背景を知らない世代のために1894年に始まった日清戦争か1939年に始まる第二次世界大戦への道筋を説明し、そしてその時代を体験した桂さんの体験に入っていきました。

 

 

———桂茂之さんの体験について 

 

現在国立市在中の桂さんは中学3年生、14歳のとき長崎で被爆しました。

 

1945年8月9日。

当時桂さんたち中学生が大八車で小型ボートの部品を積み、学校から工場まで片道約3時間を運ぶ重労働をしていました。その日はとても暑い日でした。あまりに暑いので一緒に荷物を運んでいた仲間と相談し、途中にあった氷屋で氷を一角買って体中冷やすことにしたのが桂さんたちの運命を分けたのです。氷屋で20分休憩し、出発、西中町天主堂にさしかかった頃に敵機の音を聞きました。

そして雲の途切れたところから白いものが落ちて来ました。

「おい、あれは落下傘じゃないか?」

桂さんが言った直後信じられないことが起こります。

目を貫くような七色の光とともに爆風、熱風、放射線が彼らを襲ったのです!

爆風は秒速約440m。人は自身のコントロールなどできない爆風です。熱線は3,000- 4,000度。ちなみに鉄が溶けるのが1,500度といわれています。放射線は直後に嘔吐、下痢を引き起こしただけでなく、生涯に渡り人々をがんや白血病などで苦しめました。

 

桂さんは吹き飛ばされ、西中町天主堂の溝に落ちてしばらく気を失っていました。そして目をさますと、真っ暗闇の中にポーンと真っ赤な太陽があったと言います。

 

中尾さんの講話を聞いて、しのがイメージを挿絵にしました。(転載禁止)

中尾さんの講話を聞いて、しのがイメージを挿絵にしました。(転載禁止)

 

何が起こったのかという不安、そしてまた何か起こるのではないかという恐怖が桂さんを襲います。直後、黒い雨がやむと、だんだんと空が明るさを取り戻してきました。桂さんは一緒に荷物を運んでいた4人で話し合って、国の大事なものを預かっているのだからと学校まで荷を運び戻ることにしました。学校へ帰る道すがら、あまりの恐怖から途中一度防空壕へ避難しましたが、瓦がバリバリという音がするのがさらに恐怖を煽ります。その壕は原爆のためやけどや負傷した怪我人でとうとういっぱいになり、桂さんたちは再び学校へ歩き出すことにしました。

学校へ戻り先生に事情を話すともう帰って良いということでした。交通機関は麻痺しているとのことだったので仲間と相談して金比羅山を越え、浦上地区まで出て、そこからいつも使っている汽車の線路に沿って、家まで帰ることに決めました。しかし山を越え浦上の街を見下ろした桂さんたちは唖然とする以外ありませんでした。

何が起こったのだ。

山を降りると怪我人、死人、防火水槽には人が頭を突っ込んで死んでいる。

助けて・・・と言われてもどうにもできない。

線路までたどり着くことを諦めて山の麓を通って長与駅まで帰ることにした。と言っても普段電車で通っているだけの歩き慣れない道。随分さまよったものの、爆心地から離れて人や街の被害が小さくなってきて、安心したしたので余裕が出て来た頃でした。20代くらいの女性が二人助けを求めてきました。当時道ノ尾に救護所があったので相談して彼女たちをそこまで連れて行くこと決めました。彼女たちを友人と交代で運びます。水を飲みたいという彼女に水を飲ませてあげなかったことを今でも後悔しています。

長与駅についたら、家族が「よかったよかった」と出迎えてくれました。爆心地から距離のある桂さんの家も窓ガラスが割れていました。そして市のほうで火災があちこちで起きているのを見て長崎で助けを求めても助けられなかった人のことを思い出して手を合わせました。

 

後日、桂さんが市内に入ると町のどこを見渡しても遺体だらけでした。

炎天下の長崎の焼け跡で、鼻を突く遺体の腐るあの匂いは一生忘れられません。

 

原爆投下後に見た光景で特に忘れられない二つの光景があります。

当時木製で腐食止めの油が塗ってあった電柱の上にマッチのように火がついて、時間が経つにつれとうとう下まで燃えていました。

 

 

中尾さんの講話を聞いてしのがイメージを挿絵にしました。(転載禁止)

中尾さんの講話を聞いてしのがイメージを挿絵にしました。(転載禁止)

 

カンカン帽の男性。爆心地付近でひざまづいて亡くなっている男性がいましたが彼は炭になることなく、かぶっていた帽子までもそのままでした。強い熱線を浴びた爆心地の人々の遺体はほとんど炭化していたのに彼は何をしていたのでしょう。

 

中尾さんの講話を聞いてしのがイメージを挿絵にしました。(転載禁止)

中尾さんの講話を聞いてしのがイメージを挿絵にしました。(転載禁止)

 

71年経った今、桂さんは2度目の胃と大腸のがんの発症を以って原爆症認定を受けました。

 

■講話のまとめ

核は今でも世界中にあります。一度戦争が起こればいつでも使われる可能性があるのです。71年前に被爆した方々は皆さんと同じで普通に生活している人たちでした。

 

 

———中尾さんの祖父

 

「私の祖父も被爆者で、17歳で被爆しました。」と中尾さんは紙を取り出しました。それは中尾さんのおじいさんが綴った記録でした。

この手記はおじいさんの被爆50年後に書かれたものですが、「本当は話をしたくなかったが書いてみた。」と胸のうちが吐露されていました。

最後に中尾さんはこのように締めくくりました。

「桂さんが、祖父が、被爆者の方々が、思い出すのも辛い、すさまじい体験を語る、そのわけは何だと思いますか?そこには、自分たちの体験から原爆をはじめとする核兵器の恐ろしさを知ってほしい、当たり前だと思っている日々がどんなに幸せなのかを感じてほしい、そんな強い思いがあると、私は思うのです。そして、皆さん1人1人が、こうやって被爆者の声に触れること、他人事ではなく自分の事として考えることが、今後、当たり前の日常を守る大きな力となるのではないかと思います。」

 

  1. 講話を終えて中尾さんへのインタビュー

 

講話を終えた中尾さんからお聞きしました。

 

———なぜ原爆に関心を持ち継承者に立候補したのですか?

 

出身地である長崎では、平和教育が盛んに行われ、8月9日には平和集会で黙祷をするのが普通でした。上京して1年目、まわりで「原爆」のことを話題にする人も黙祷をする人もおらず、その現状に衝撃を受け「このままだと風化してしまう」とその時初めて危機感を覚えました。この状況を変えるために何かしたいと思うようになりましたが、経験をしていない自分に何ができるのか分からない…。 そんな時に国立市で伝承者を募集していることを知りました。対象が非体験者であること、加えて、グループで「継承」について考えられるメリットがあることに魅力を感じ、応募することにしました。

 

———伝承するにあたって大変だったことは?

 

■大変だったこと

実相をきちんと伝えること。

基本的なことではありますが表現の仕方や言葉のニュアンスで、受け取り手に誤解を与えてしまうこともあるので、桂さんや受講生とチェックし合いました。講話時間が限られているので、どの要素を盛り込むか、その取捨選択をするのも苦労しました。

 

———中尾さんからみなさんに伝えたいメッセージをどうぞ

 

講話中にもお話ししましたが、原爆の被害にあった人々が特別だったわけではないということです。時代は違いますが、皆さんと同じように日常を過ごしていた人たちの上で、原爆は炸裂したということを知ってください。 また、被害にあったのが「自分だったら」「家族だったら」「友人だったら」というように、他人事ではなく自分の事として考えることが、当たり前の日常を守る大きな力となるのではないかと思います。

 

中尾さん、ありがとうございました!

 

以上、国立市最年少伝承者である中尾さんが伝承する桂成之さんの講話とインタビューでした。皆さんはどんな感想をお持ちになったでしょうか。

国立市では現在も伝承講話を開催しています。また伝承者も募集していますのでご興味のある方は千里の道も一歩から、まず足を運んでみてはいかがでしょうか。記事に対するコメントや質問も随時お待ちしております。

 

しの(継承活動に取り組む人々をつなぐPJ)

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