【つなぐPJ】(広島)2/8(日) 祖母、篠田恵を取材して 〜「私の原爆体験記」〜

 

 

被爆数年後の祖母

被爆数年後の祖母

みなさんこんにちは、つなぐPJのしのです!

私の祖母である篠田恵は広島原爆の被爆者でもあります。

2010年、私の頼みを聞き届け祖母は語り部として自身の体験を語る活動を始めました。最初は涙を流しながら言葉が出てこない場面もあった祖母の語り部。しかし最近では国内外から訪れる小・中学生、高校生、留学生、社会人、色んな方の感想に勇気づけられ「生きているうちは語らなければ」と定期的に通っている病院や用事の合間を縫っては語り部活動をしています。

少しずつ活動を続けながら今年で7年目、この度彼女の体験を見える形でまとめる作業をしようということになり彼女の体験をまとめました。

それではみなさん、読んでください。

 

原爆体験記

 

篠田恵

(旧姓 世羅恵)

こんにちは、篠田恵です。

1945年(昭和20年8月6日午前8時15分)私は爆心地より、2.8kmにあった我が家で世界で初めて落とされた原子爆弾により被爆しました。女学校2年生(13歳)の時でした。当日広島市内にいて被爆した家族は、両親と姉3人、弟1人。父は兵隊さんの服を作る所である被服廠に勤め、家には母と2才半になる弟、社会人だった姉2人のうち長姉は爆心地から8キロ位離れた所の三菱工場へ、次姉は爆心地から500メートルの所の銀行へ出勤しており、三姉は女学校4年生で学校から作業場に向かっていました。

図1:被爆した時の家族の場所

図1:被爆した時の家族の場所

 

当時の広島は人口30万人に近い大きな都市でした。原爆が投下された日は住民、兵隊、様々な作業に集まった人々、学生たちでさらに人口は35万位に膨れ上がっていただろうと言われています。特に街には多くの兵隊さんがいました。従って兵隊に関連した会社や工場が多くありましたが若者は召集令状、いわゆる”赤紙”が来ると兵隊さんになっていかれ、どの会社も工場も農家も手薄になりました。

私たち女学生や中学校の男子学生も3年生以上は学校へは行かず、それぞれ決められた会社や工場で働いていました。これを学徒動員と呼びます。私たちのような1、2年も学徒動員です。戦争をするために大人ほどは役に立たないので短期で戦争で使う道具を作る所である兵器廠、兵隊さんのための食料を取り扱う糧秣(りょうまつ)廠、被服廠、煙草を作る専売局などに派遣されて仕事をしていましたが、中でも一番多かったのが建物疎開だったように思います。建物疎開とは当時木造家屋ばかりだった住宅地に火で焼き払うための爆弾である焼夷弾が落ちたとき、火災の被害がある程度の範囲で収まるよう、また道幅を広げて自動車が通れるようにするために家を間引く作業です。柱の下の方を兵隊さんたちが切り、家の柱の上の方にくくった縄を生徒みんなが綱引きのように「ヨイショ、ヨイショ」と引いて家を倒します。それを私たちが片付けるのです。

当時は食糧難で毎日のように大根を細切れにしたものを少量のお米と一緒に炊いた大根めしを食べていました。日用品や食べ物など、生活の中で消耗するものは1人あたり使ったり食べたりできる量が決められていて、その割り当てられた量を国が作った切符と交換する配給制という制度があった関係で魚や肉も1ヵ月に1度食べれれば良い位でした。

原爆が投下された8月6日当日も建物疎開に行く予定でしたが連日の真夏の炎天下の建物疎開で私はとうとう体調を崩し朝起きることができませんでした。母も起こしてくれませんでした。私があまりにも疲れていたこと、そして父の云った言葉があったからだったのでしょうか。昭和16年12月8日、ハワイ・レイテ島を騙し討ちして戦争が始まりました。父は、「この戦争は絶対に負ける。あの大きなアメリカを相手に資源のない日本がなんで勝てるか。学校や作業には無理矢理行かせるなよ、もしものことがあったら後悔するぞ。」と云っていました。

私の父は大正の始めから昭和の初まで14年間出稼ぎのためアメリカにいました。母も5年おり、そのときは4人の子供をつれて一時帰国していました。ですからアメリカのことをよく知っていました。

目が覚めたときは、集合の時間で現地まで行くには1時間余りかかるので、寝ぼけ顔して柱によりかかり弟に折り紙を折っていました。弟はお椀の豆を一粒つづ食べながら私の指先を見ていました。

図2:原爆当日の自宅の様子

図2:原爆当日の自宅の様子

 

そこに隣のおばさんが「石臼を貸してもらえんかねぇ」

と云って来られました。

 

図3:石臼

図3:石臼

http://azuref.blog130.fc2.com/blog-entry-900.html

 

石臼とは大きな石を2つ上下に重ね、その間で麦や米を粉にするための道具です。母は上石を抱えて来て、縁側で何か立ち話をしていました。弟はそれを見て立ち上がり「おばちゃんも食べんちゃい」と持っていたお椀を差し出しました。

その瞬間、私の横をボゥーという音と共に大きなオレンジ色の焔が家の中にまで入って来ました。後ろ側の障子がメラメラと燃え上がり、私は本能的に「水」と思って炊事場に行こうと立ち上がりました。

図4:光と炎が家に入ってきた

図4:光と炎が家に入ってきた

 

刹那、炊事場に行くために通る4畳の和室の畳がすり鉢状に下に落ち込み、私はその中心にずり落ちました。私はその中でおそらく頭をおさえていたでしょう。後から来た爆風のためか、瓦や額縁、障子、雨戸、天井などあらゆる物がガラガラ降ってきました。

 

熱線と爆風に襲われる

熱線と爆風に襲われる

 

何分位たったでしょうか。気味悪いほどの静けさになりました。

「恵ちゃん、恵ちゃん」

という母の呼ぶ声に私は我に返り、ずり落ちていた所から一生懸命に這い上がり母のところに行きました。母と弟は右半身、おばさんは左半身、3人とも特に素肌が出ていた顔から足まで大火傷負っています。私は何で切ったか頭から血がべっとりと生温かく流れています。足にも何が落ちたのか、痛みを感じていました。弟は怖さのためか声も出ずただブルブル震えていました。私は飛行機の音も聞いていないし何が何だかわかりませんでした。

母は私のことを心配をしてくれましたが、私は一刻も早く弟と母の手当をしてやりたくて、薬箱を探しに家に入りました。母は投下されて爆発しなかった不発弾が落ちているかも知れないからと云って止めましたが、爆弾が落ちた様子もなく幸いに薬箱も火傷の薬も有り、手当をしてやりましたがどこも赤く腫れあがり皮のめくれている所も痛々しくガーゼに薬を塗って当ててやることしかできませんでした。

家の表の方でわいわい人声がするので行ってみると、近所で1軒だけあった屋根が藁でできている家が焼け落ちていました。その家のおばさんは

「中におばあさんがおられたはずだ」

と狂ったように家の周りをまわっていらっしゃいました。

私の家の方はと見るとメラメラと燃え上がった障子は後から来た爆風に吹き消されたようでしたが、屋根には大きな穴が開いています。下から見えると空と目が合いました。私がいた部屋の天井は上に押し上げられていました。そして家中の障子や雨戸も吹っ飛び柱だけが残っているだけでした。縁側に置いていた重たいミシンは、隣の部屋の真ん中に横倒しになり、また外に干していた布団は竿ごと折れて炊事場まで3部屋も吹き飛ばされ、畳の上は2、30cmの瓦礫の山となっています。物干し竿のついたままの布団は畳の下に落ちた私の上をものすごい速さで通り過ぎて行ったのでしょう。私は畳がずり落ちなかったら布団と一緒に飛ばされ生きてはいなかったろうと思いぞっとしました。

図6:縁側

図6:縁側

http://tecya.net/03/minnkaf04_b.jpg

 

私たちはこの家にはとても住めないと4、5km離れた母の伯母の家に避難することにしましたが、母も弟も大火傷をしていておんぶすることも抱っこすることもできません。それで私が大きな荷物を載せて運ぶための大八車を借りに行くことにしました。

図7:大八車

図7:大八車

http://tecya.net/03/minnkai.html

1人で歩いていくと、どの家も瓦が壊れたり窓ガラスが割れたりと、田畑に点在する家々もかなり被害にあったようです。中には焼け落ちた家もあり、ここも藁の屋根のある藁屋だったんだなーと1人思い思い伯母の家に着きました。

 

自宅から伯母宅へ

自宅から伯母宅へ

 

伯母は、「広島は何があったん、ここらも家がゆらいでゴミが落ちて掃除をしとるとこよ」

と云われました。私が母と弟が大火傷をしていること、家が柱だけ残っている状態で雨戸も障子も飛ばされたことを告げると、伯母は「それは大変じゃ、早う帰って連れてきんさい。」と快く大八車を出し、土手まで押し上げて貸してくださいました。

1kmくらい帰ったところで親せきの人と会いました。おばさんは「うちは焼夷弾が落ちて丸焼けになったんよ」と云われました。

私は家に爆弾が落ちたこと、先ほど大八車を借りた伯母に話したことを伝えました。おばさんは「気を付けて、早う連れて来んさいよ。」と云われて別れ、早く帰らねばと母と弟のことを考えながら足を早めました。

また1kmくらい帰ったところで竹藪の中が何かざわめいています。よく見るとそれは兵隊さんでした。すでに息絶えた人、服はボロボロで膝を抱えている人、痛い痛いとうめいている人たちがいます。後からトラックが来て、止まったと思うと兵隊さんが大怪我や大火傷をした兵隊さんを降ろして竹藪の中へ運んで行きます。

市内で何があったかまったく知らない私は、どうして兵隊さんがと不審に思いながら、また歩き出しました。

しばらく歩くと前方から何かがやってきます。黒っぽい集団のようです。田んぼの中の一本道を私の方へ向かって来ているのです。何だろう、何だろうと思いながら近づいて目に飛び込んできたもの、それは今まで見たこともない人たちの姿でした。髪の毛は焼け縮れ、顔は薄黒く、ボロボロの服を着て指先から何かぶら下げている人、血を流している人もいます。子供をおんぶしている人、子供の手を引いて半身にボロがまとわりついている人もいます。中には放心状態でぶつかって来る人もいて大勢の人が私に向かって来るは来るは…!

私は一瞬この人たちはどこから来たのか、私が地獄に迷い込んだのかと怖くなり出来るだけ見ないように見ないように下を向いて一歩づつ歩きました。

市内方面に向かっているのは私一人です。しかも大八車を引いて一歩一歩しか動くことができません。少し行くと農家の庭先に人が集まっています。何をしているのかな、と思って見るとキュウリを摺って火傷したところにべちゃべちゃと塗ってあげておられました。「はー、キュウリが火傷にいいのか。」と思いながら帰っていると、次に通りがかった家ではがジャガイモを摺って塗ってあげておられました。

我が家の近くの土手まで帰ると人の流れも多少減りました。でも近くの竹藪の中は先ほどすれ違ったような人でいっぱいです。家に着いたのはもう日も沈み薄暗かったように思います。

その頃すぐ上姉が動員先から帰宅しました。山裾を通って帰ったようで無事でいました。上姉は家から5kmくらいのところにある三菱に勤務していて姉からは「無事でいるがけが人の看護のため今日は帰れない」と人づてに連絡がありほっとしました。しかし私たちの中では爆心地から一番近くの銀行に勤務していた中の姉が帰って来ません。姉は月曜日で「今日から掃除当番だ。」と云っていつもより早いバスで出かけたそうです。

父は夜遅くに帰ってきました。私の姿をみてほっとした様子でしたが、私は「幸代姉さんがまだ…」というのが精一杯でした。父はもう察していたのか目に涙が光っているようでした。

父は被服廠に勤務していて、私を探しに建物疎開場所に行ったがどうしてもわからないので海の方から焼け残った山裾の方を回って帰宅したそうです。

その夜は敵の飛行機から落とされる爆弾から避難するために掘ったトンネルである防空壕で寝ようと思いましたが、中はけが人や火傷の人でいっぱいな上に薬のにおいと人いきれで臭くて臭くて中にはおれず、友達4、5人で防空壕のそばの道端で寝ることにしました。 筵をしいて横になりました。夜空は何事もなかったかのようにきれいな星がまたたいでいました。流れ星もいくつか見ましたが市内の方は明るくまだ何か燃えているようでした。空襲警報が鳴ると防空頭巾をかぶり防空壕へ入ったり出たりでその夜はとうとう一睡もできませんでした。

明けて7日、父と2人で帰らぬ姉を探しに銀行へ向けて出かけました。崩れかけた家々を抜けると、そこは見渡す限りの焼野原です。市内を囲む山々が近くに見え市内の鉄筋の建物や金庫などが焼け残ってまだあちこちがくすぶっていました。街中が瓦礫の山です。焼けて横たわる電柱をまだぎ電線に足を取られ、焼け瓦の上を歩き、ゆっくりゆっくり足場をさがしながら姉が勤務していた銀行の本店へ向かいました。

わいわいと人だかりがしているので行ってみると昨日であったような人たちが沢山集まっていました。トラックの運転手らしき人が

「北の方へ行くが乗っていく人はいないかー 帰る人はいないかー」

大きな声で何度も何度も叫ばれていました。

私たちは姉の勤めていた銀行の本店の前に足を止めました。戸を開いたとたん私はびっくりしました。カウンターの上から土間にぎっしりと、昨日見たおばけのような人たちが「水を」「お母さん」と云いながら足の踏み場もないほどにころがっているのです。全くこの世の地獄です。私はその場に立ちすくんでいました。父は1人1人「幸代はおらんか、世羅幸代はおらんかー」と探して回りましたが、そこにはいませんでした。

本店から広い電車道を歩いて行くと、電車が丸焼けになり中では座ったままで死んでいるような人もいました。また、電車の陰では力尽きたのか座り込んでいる人、私たちのように家族を探しに来たと思われる方々がぼつぼつ歩いておられました。

原爆投下の目標地点になった相生橋の方へ目をやると、昨日出会った火傷や怪我人とはまるで違い真黒焦げの死体がごろごろ、性別も分からず、股間で何とか判断するほどです。また、お母さんに手を引かれた子ども、子どもをおんぶされたまま一緒に亡くなっている母子、防火用水には水を求めてか、熱さから逃れるためか頭から突っ込んだ人で満杯です。

馬も2、3頭死んでいました。馬のおなかが割れて黄色い臓器が出ているのが印象に残っています。その当時はなぜそのような状態になったのが疑問でしたが、当時爆風の秒速440メートルの風圧を受けて腹が破裂したのだということを後に知りました。近くには乗馬靴を履いた兵隊さんらしき人も亡くなっていました。

私たちの姉が勤務していた銀行も跡形もなく焼き尽くされ、金庫だけが焼け残っていました。どこかで生きていてほしいと神仏に祈りながら手を合わせました。

「私はもうあのむごい有様は見たくない。」と相生橋の方へ行きました。相生橋は車道と歩道が両側にめくれ上がり、間から水の流れが見え死体も沢山浮かんでいました。橋のたもとには兵隊さんたちが引き上げた死体が20体くらい並んでいます。私は1人1人見ましたが、姉の姿はありませんでした。

帰りは川土手を歩くことにしました。こちらの遺体の損傷もひどく肋骨まで焼けている人もいました。また、誰が敷いたのかわかりませんが、むしろの上にもう亡くなっていると思われるお母さんのそばに弟と同じ2才くらいの無傷の子どもがぽつんと座っていました。子どもの前にはカンパンが5,6個置いてありました。あの子はその後どうなったでしょうか。結局その日、姉を見つけることはできませんでした。

また、近所の人たちが「幸ちゃんによく似た人がいるよ。」と知らせてくれる人がいれば何はさて置き竹藪の中や橋の下にも飛んで行きました、それは姉ではありませんでした。

外を歩いているとき、大八車に横たわって運ばれている人から「世羅さんでしょう、世羅さんでしょう。」と声をかけられましたが、余りにも変わり果てた姿に私は一瞬それが誰だかわかりませんでした。その人は一緒に女学校へ通ったクラスメートで、彼女は大火傷をして親戚の家に連れて行ってもらう途中でした。

2日経った頃だったでしょうか。兵隊さんが油缶を2人でかつぎ火傷した人に塗ってくださり、また大きなおむすびを「1人1個ずつよ。」と言って持って来てくださいました。ギンギラギンギラ光るお米だけのご飯を久しく見たこともなく、食事のことすら忘れていた私たちは大喜びしていただきました。それはとてもとても美味しく、今でもその味を忘れることはできません。

父はいつまでも外で寝ることはできないと家を片付けて仮修繕し、やっと畳の上で寝ることができるようになりました。とはいっても家の内外を遮るものがないので家の中で寝ても道を歩く人が見えますし、道を行く人も家の中が丸見えでした。それでも屋根の下で寝れるのはとてもとても嬉しかったです。夜トイレに起きると、母は柱によりかかり道の方を見ています。「何しとるん?」と聞くと「幸ちゃんが帰って来んかと思ってねー」と姉の帰りを待ち続ける母の姿を幾夜も見ました。私も子の親となり、母の気持ちがわかるようになりました。

8月15日、天皇陛下の玉音放送を聴きしました。雑音もひどく私にはよく分かりませんでしたが、皆の様子で日本が戦争に負けたことだけは理解できました。父の云ったことは本当だったなぁと思いました。この先どうなるかはわからないながら、明かりが外に漏れないように黒い布で電気を覆う必要もなくなったため家の中が明るくなりとても嬉しかったです。

終戦後いち早く従兄が兵隊から帰ってきました。20日ごろに兄も続きます。8月の末ごろ2人は爆心地から1.5km位のところにあった従兄の家の焼け跡を掘り起こし、2人ともが白血病で亡くなりました。従兄弟は30代半ば、兄は56歳でした。元気で帰ってきた2人が直接被曝も受けてないのに原爆症と言われる病気で亡くなったのは残留放射線のせいだと思います。

弟の火傷も9月ごろにはほどんどよくなり、飛行機の音がすると表に出て「姉ちゃんを返せ!姉ちゃんを返せ!」と言っていましたが、9月17日の大型台風にすっかりおびえ、空を見るのも怖がるようになり10月初め頃から原爆症のひとつである下痢が始まりました。戦後の食糧難の時分に食べさせてやる物もなく「母ちゃん、もうカボチャはいや…」と言う言葉に母もそっと涙を拭いている姿を見ました。2才半の一番かわいい盛りの弟は楽しいことは一度もなく骸骨のようになって、母の胸にしっかり抱かれて10月22日、天国の姉の下に行きました。

食糧難はますますひどくなり、私は姉と2人でお芋の買い出しに3~4kmの道のりを歩いて田舎の方へ行きました。でも私たちは7人の大家族で買って来てもすぐなくなってしまいます。主な食事は大根を細かく刻んで米を嵩増しした大根飯とカボチャだったように思います。当時は今のカボチャと違いで大きく大きく作ります。その昔は牛の餌にしていたようなものだったとか。父は味のないカボチャは食べられないと云って一升瓶を並べたりんご箱を大八車に乗せて綺麗な海水の汲める海までの約10kmの道を塩を求め行ったことも2度ありました。

今、日本は私たちには想像もできなかったくらい食料が十分あります。いつでも、どこでもおなか一杯食べることができます。スーパーの食品の残りが沢山処分されていると聞きます。この戦争でも約310万の兵隊さんが亡くなったと言われています。その兵隊さんの多くは食べるものがなかったり、病気で亡くなったと言われています。また、人間だけでなく、牛は食料に馬は荷物運びをするために戦場に駆り出され、犬は毛皮を取られたと聞きました。この兵士たちの親、妻、子供、兄弟姉妹、どれだけの人が苦労し、涙を流したことでしょう。

広島に投下された一発の原子爆弾(リトルボーイ)は長さ3メートル、直径70cm、重さ4tと小さいものですが、爆発すると上空600メートルで、中心温度は数百万度、表面温度が7,000度の火の球となり、地上の温度は3,000〜4,000度にもなります。爆風は秒速440メートルで爆心地にあった建物の90%以上が壊され、焼かれました。その年(昭和20年)の年末までに、およそ14万人が死亡したと言われています。

今ある平和公園は、被爆前は広島で一番賑やかな街で、映画館や劇場、商店が立ち並んでいましたが、一発の原爆で見るも無残な姿になりました。中心部にあった病院では医者90%、看護師93%がなくなっています。それほどの被害がその一帯に起こっているのです。多くの人を失ったこの場所を慰霊の地にしたいと土を盛り、平和記念公園にしました。ここに来られた時は、そのことを頭の片隅に置いて歩いていただければと思います。

原爆投下から数十年、私は原爆に関する書物を読み事実を確かめることにしました。スイスの医師、ジュノー博士が15tもの医療品を広島に送ってくださっていたとには深い感動を覚えました。一方、この原爆で親や住む家も一度に無くした被爆孤児が2,000~6,000人いたことも知りました。このお子達の生活を垣間見た時、あまりにかわいそうで私は胸が締め付けられ、涙が止まりませんでした。

戦争ってなんですか。

人と人の殺し合い。

誰のためにするんですか。

一発の原子爆弾でその年12月末までおおよそ14万人が亡くなったと云われています。

そして放射線は様々な病気を発症させていつまでも人々を苦しめるのです。私たちの家族も父は肝臓がん、母は胃がん、姉は肺がん、兄と従兄は入市被曝なのに白血病で亡くなりました。私は78歳で膵臓がんと診断され大手術しをしました。70年経った今も被曝者は色々な病気と戦い、そして不安な日々を送っています。

「戦争は人間のしわざです」とローマ法王が云われました。今度は人間の英知で2度と戦争のない世界にしたいものです。核兵器などもってのほかです。核の恐ろしさは広島・長崎で十分わかったはずです。

今、地球上に約1万5000発もの核兵器があり、その威力は広島に投下された原爆の数百倍、数千倍と言われています。再び戦争で核兵器が使われれば地球は壊滅するでしょう。21世紀こそ戦争のない核兵器のない平和な世界になりますよう、今を生きる人間こそ、自分に与えられた使命をしっかり果たして生きましょう。私の話が平和の一粒の種にでもなれば、本当に嬉しいです。

 

 

広島の心(平和宣言より)

「平和、それはヒロシマの心である。」(昭和52年)

「この世の中で平和ほど尊いものはない。」(昭和53年)

「平和を求め、ヒロシマは語り、ヒロシマは訴え続けなければならない。」(昭和54年)

「平和とは、単に戦争の防止のみにとどまらず、憎しみを超えた愛と理性に基づき、人類の全てが共存共栄することである。」(昭和54年)

 

 

 

いかがでしたでしょうか?

一言でもご意見、ご感想をいただけると祖母も私も嬉しいです。県外の方はぜひこの思い出も一緒に広島を訪れてみてください。

 

しの(継承活動に取り組む人々をつなぐプロジェクト)

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「継承活動に取り組む人々をつなぐプロジェクト」ボランティア募集とこれまでの取材記事紹介

 

One Comment

  1. 伊藤治郎

    コメントを入力             2017.03.15(水)

    「つなぐPJしのさん」のレポート「(広島)2/8(日)祖母、篠田恵を取材して~私の原爆体験記」を読んでの感想です。

    このレポートを読んで気付いたことを箇条書きにしてみます。

    1.私の計算によれば、原爆投下時の熱線(ピカ)は、ご自宅の南方向の仰角12度の上空から入射したため物干しの布団や障子戸の陰になって、お祖母様は熱線による火傷を負わずに済んだものと思われます。当時の体験談として、白いシャツの部分だけ火傷を負わずに済んだことはよく聞きます。白い物は、熱線を良く反射する分、透過エネルギーを低減させる効果が大きいようです。まさに「紙一重」で火傷を免れられたものと思われます。

    2.また、原爆投下時の爆風(ドン)は、音速350mとしてピカより8秒遅れて到達するため、丁度床の窪みに落ち込んで爆風で吹き飛ばされてきた布団をやり過ごすという、まさに神業のような偶然のタイミングの良さにお祖母様は恵まれておられたようです。

    横浜市青葉区在住(男性、76歳)

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