【つなぐPJ】『(東京)8/27被爆者の証言と「継承」を考える』の記録(1)《岩佐代表理事の証言》(要旨)

今年の8月27日(土)東京四ツ谷の主婦会館プラザエフで開催した被爆者の証言と「継承」を考えるの記録ができました。当日の録音から文字起こしして、つなぐPJのしのさんと中尾さんにまとめていただいたものです。

 

《岩佐代表理事の証言》(要旨)

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全て白髪に変わった頭を一度深く下げ、はっきりとした口調で岩佐さんは話を切り出しました。

「戦争が終わったのは8月15日、広島に原爆が落ちてから10日後ですが、最近になって私は、私の戦後は8月6日に始まったのではないかと思うようになりました。」

幼少期から軍人の祖父を持っていた岩佐さんは自然に自身も将来は軍人になると信じていた軍国少年でした。しかしそれは8月6日、原爆によって一瞬にして崩れ去りました。岩佐さんの家は爆心から1.2km。

「母が家の下敷きになったので、助け出そうとしたんですが、どうしても助けられない。一番近くで火の手が上がってから30分ぐらいですかね。爆心から2km近く離れた周辺の地域だったら場合によっては夕方ぐらいまで火が来なかった。母に火が迫って火の粉が飛んできていると言ったら、「それなら早く逃げなさい」と言ってくれました。父はその年の5月に病気で亡くなっていたので「お父さんのところに先に往っていて。僕も後から敵の軍艦に体当たりして往くから」と言いました。周りは火の海でした。逃げようとした時に妹のことを話したんです。好子といいました。「よっちゃんが大きくなったら、いいところにお嫁さんやるから。」自分も死ぬと言って、あとから往くと言いながら、妹が大きくなるまで生きると言っているんです。この矛盾。そのときは気が付きませんでした。」戦後、軍人になるという夢から解放されてからもその記憶に長く苦しめられ、今もその傷が癒えることはありません。

彼は戦後、自身の進路、どうして生きて行けばよいのかを見つけ、つくりあげることに苦労しました。被曝の後遺症から身体に赤い斑点が現れて喉が腫れて水が飲めない。熱は出て、歯茎からは出血し、鼻血は出て髪も抜けます。そんな身体を抱えながらも、夫を亡くした叔母が母代りとなり、岩佐さんはその家の男手としてお互いを支え合いながら苦しい戦後をもがくように生きました。

「今、一万数千発の核兵器があります。”被爆者は核時代に生きる人類の道しるべを示している、教師の役割を果たしている“と言ったことがある。苦しい人生です。私も今、ガンを持っていますし、もう1つガンが見つかるかも知れない。でも、私はたたかいます。こうした人生を、誰にも味あわせたくない。味あわせてはならない。被爆者のたたかいというのは、ある意味、自分自身とのたたかいでもある。

そういうことを踏まえ、私たちの気持ちをまとめて、心の支えとしているのが『原爆被害者の基本要求』。核兵器をなくすこと、国の補償を求めることを柱にして運動を進めています。被爆者はそういう要求を持っている。それは、それだけの苦しみを持って国の政策を変えようとしている。人類が核の被害者になって様々な疾病に苦しむ、そういうことのないように核のない世界を目指して運動をしていることを理解していただければよい。被爆者が国家補償を求めるのはなぜでしょう。最大の被爆者の目標は、国に再び被爆者をつくらないことを国民に約束させること。その意味では『原爆被害者の基本要求』は国民の問題でもあると思う。」

最後に、私の話は、私自身の記憶をもとに自分の想像力と構想力で追体験したもの、それをお話ししている。体験していない私たちに何がわかるだろうと思われるかもしれませんが、私たち自身も体験ではなく追体験したことをお話ししている。それをみなさんの想像力で受け止めていただきたい。「そんなことがあったのか」だけではなく「私だったらそのときどうしただろうか」、そう自分の問題として受け止めてほしい。その時に原爆の被害というものに一歩近づいて、そういう被害を私は受けたくないという思いに昇華していく。そうしたら、そのことが元になって「継承」の基礎ができてくると思う。それ以外、原爆に迫っていくことはできない。」

会場の参加者の目には様々な感情が浮かんでいるのが見て取れ、ぴんと張り詰めた空気がそこにありました。

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