【つなぐPJ】(東京)10/1(土) トークセッション第12回被爆証言に向き合うに参加して〜後半「生き取りましょうか?死んどりましょうか?」

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■渡辺睛(ひとみ)さん(当時14歳)

「生き取りましょうか?死んどりましょうか?」

私の名前はヒトミって言うんですが、電話口なんかで説明するときに晴天の晴の左側が目ですって言っても知ってる人の方が少ないんです。なので普段は渡辺セイと名乗ってます。

おっとりと独特のリズムで会場を笑顔にして、渡辺さんのお話はゆったりと手元の写真付きの資料を見ながら始められました。資料には長崎の被害を受けた範囲の地図や渡辺さんが今年の8月9日に長崎に足を運んで撮った写真の数々。実は今年の8月9日は私も長崎の爆心地に近い瓊浦中学校の慰霊式に出席していたのでもしかしたらすれ違っていたりして…と思ったりもしました。

写真は多くの犠牲者を出した長崎国立医大学を中心に取られたものが多く、その他渡辺さんが体験した「原爆ぶらぶら病」、アメリカが原爆投下の予行演習に使ったパンプキン爆弾、そして原爆投下の日を再構成した論文などが資料としてありました。

 ■被爆当日

昭和20年8月9日、旧制長崎中学2年生だった渡辺さんは長崎の爆心地から3.7kmほどの県滑石町の家からほど近い平宗川で泳いでいました。

突然背後から強烈な爆音が鳴り響き

川から上がると肩や背中を火傷していました。今でいうトリアージをしていたんですね。助かる見込みのない重症患者は見捨て、程度の軽い患者の治療は後回しにするのです。私は長く病院で待たされた挙句「火傷2度」と言われ治療も何もされずに終わりました。

当時地面はバラスと呼ばれる石ころで、飛ばされて傷を負った人々はボロをまといぞろぞろと逃げてきました。印象的だったのは女性は下が裸で、男性は服が裂けて飛んでも腰バンドがよく残っていたことです。

負傷者の服を再現する渡辺さん(右)

負傷者の服を再現する渡辺さん(右)

逃げてくる人たちは背中を火傷したり手のひらを火傷したりして患部はまるでマグロの赤身のようでした。座らそうと思っても支えにするために手の甲を付けないし、寝させようと思っても背中が痛くて横になれない。そういった人は一度腰を下ろすと死んで行きました。

■家に避難してくる人々

渡辺さんには兄がいましたが、彼は9日の夜になっても帰ってきませんでした。

夜中の3時ごろ兄ちゃんが来たと言われ玄関に出てみると、そこには火傷で顔が腫れ上がった学生がいました。10cmまで顔を近づけてその学生の顔を覗き込んでみてもそれが兄かどうかすらわかりませんでした。結局その人は兄の友人だったようです。

母が「夕食は食べましたか?」と聞くと「まだです」というので母は台所からトマトを持ってきました。手でちぎって口に入れるとずるっずるっと火傷で剥けて垂れ下がっている唇の皮まで一緒に口に入るのです。母がハサミを持ち出しその方の垂れ下がっている唇の皮を切り取ると幾分か食べやすくなったと言います。その人は実家の福岡に帰るともかなわず4日後に亡くなりました。

その人もそうでしたが、負傷した人が泣いたということはあまり聞きませんでした。だた人が流れる方へ目的もなく呆然とついていく人の列がありました。

 ■被爆と後遺症

原爆の被害は当日だけにとどまらず長崎の人々を苦しめました。無気力で身体の抵抗力も低まり日常生活が手につかなくなる「ぶらぶら病」には渡辺さんも苦しめられました。当時放射能の脅威を知らない人々は被爆者を遠ざけようとした人々も少なくありません。そうした風評被害がまた被爆者を何重にも苦しめました。

いつ白血病が来るかわからないから30歳過ぎて結婚を考えようと思った人もいます。

後遺症である脱毛やケロイドにも多くの人が体験しています。

ケロイドの写真

ケロイドの写真

若い娘さんが三角巾をして歩いていたり、真夏なのに長袖を着ていたりする姿を当時はよく見ました。それは髪の毛が抜け落ちていたり、ケロイドを隠すためです。そういった人たちを「原爆娘」と呼んでいました。渡辺さんも不定期にジーンと背中の一箇所に鈍痛が走る状態が今でも続いています。

田辺さんは口を引き結んで渡辺さんの話を聞いていました。

 ■終戦の年

原爆を落とさなくても戦争は終わったという人はいますが、原爆を落とされても戦争を止めない。と腹を切って死んだ将校さんもいるし、原爆が落ちないと戦争は終わらなかったと思うと渡辺さんは言います。当時の風潮としては死んで国に奉公するのが当たりまえで、日本にはいざとなったら神風が吹くと信じられていたのです。天皇の名前を口に出す時は「畏れ多くも…」という前置きがあり、そして全員が直立不動になって「天皇陛下」という言葉を聞くという徹底ぶりでした。「上官の言葉は天皇の言葉である」と上官に逆らうことは許されていませんでした。学校の先輩、後輩の間柄でさえすれ違う時は敬礼を義務付けられていました。当時は先生よりよっぽど先輩の方が怖かった。今思うとおかしいですが。と渡辺さんは付け加え軽く笑いました。

終戦の知らせを聞いた時はホッとしました。夜も寝られるし食も少しはある。軍人にもいじめられない。軍人が国民をいじめていたんです。学校の職員会議で配属軍人は校長の横に座っていて、それに不服がある場合は会議をさせてもらえないという有様でした。

■兄の死んだ防空壕の話

最後に、と渡辺さんは話し始めます。

8月9日兄が亡くなりました。

兄は12人くらいづつ決められた時間に防空壕に入ったり、出て作業をしている最中でした。11時が交代の時間だったのでしょう、兄が防空壕を出てすぐに原爆は炸裂しましたようです。

10日、兄のいた学校がわかり父が探しに行きました。

防空壕の外にほとんど裸のような状態で固まっている10数名の生徒は重度の傷や火傷でもがき苦しんでいます。

「渡辺ヒサシはどこにおりましょうか!」

と尋ねると、苦しんでいる学生の一人が指をさしてその辺にいるでしょう。と応じました。

「生きとりましょうか、死んどりましょうか」

 渡辺さんは涙ぐんで「その時父はどんな気持ちでその言葉を発したのでしょうか…」と自分自信に問いかけるようにつぶやき言葉を探します。

父親はとうとう裸で死に絶えている兄の姿を見つけ出しました。友人が最後の餞に鉄兜で水を腹一杯飲ませたと聞きました。その死に顔は苦しんだ様子の見受けられないような綺麗な顔だったと言います。

■終わりに

いかがだったでしょうか?

田栗さんは「これからもう弱っていく一方です、大分痩せました。次は若い人に繋いでいただきたい」と括りました。その言葉の通り、戦後71年経った今、顔を見て当時原爆を体験した方のお話を聞ける機会は随分少なくなりました。

とく平成生まれで昭和を知らない私のような若い人には興味がなくても、受け継ぐ気がなくてもきっと自分のルーツに繋がっている部分に気づく部分があるので一度でも体験を聞いてみることをオススメします。

興味がある方はお気軽にリンクからお問い合わせください。

 

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 しの(継承活動に取り組む人々をつなぐPJ)

 

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