【つなぐPJ】(東京)10/1(土) トークセッション第12回被爆証言に向き合うに参加して〜前半「あの時、一緒に死んでしまえばよかった…」

こんにちは、つなぐPJのしのです!

 今回は元高校講師の竹内さん主催によるトークセッションの第12回に参加しました。

 【連続講座のご紹介】

<ヒロシマ・2016 連続講座>トークセッション第12回被爆証言に向き合う

■トークセッション初参加

 駒込駅の改札を抜けて5分ほどの場所、掲示板には数ある広告の一つに「トークセッション」の旨が書かれたA4の紙を見つけ見上げたビルが開場でした。

 開場の3階まで上がると丁度ドアが開き中から年配の男性が出てきて「どうぞ」と身を捻った横をすり抜けて開場に入ります。

受付を済ませて前の方に座ると

 「埼玉の慰霊式に来てた人?」

と資料を整理していた男性が話しかけてくれました。

そうです、と話しているうちにこの方が主催者の竹内さんであることがわかりました。

高校教師を定年まで勤め上げ、時間ができたから次はこうした活動をしているのだととてもアグレッシブな方です。

その方の一声でトークセッションが始まり彼が今回の目的や2名の被爆者さんの紹介をした後、それぞれの被爆者さんのお話が始まりました。

 ■田栗静行(しずゆき)さん(当時5歳)

 「あの時、一緒に死んでしまえばよかった…」

首にスカーフを巻き、白シャツに身を包んだ清潔感のあるお洒落な田栗さんの話は3年6ヶ月前に宣告された胃がんの話から始まりました。

腹式呼吸らしいよく通る声で滑舌がよく、歌をやっている方かもしくは講師などをされていた方なのかといった第一印象です。

当時の様子を説明する田栗さん(左)

当時の様子を説明する田栗さん(左)

田栗さんは長崎で5歳の時に被爆しました。

実家は爆心地から500mもない橋口町、本当なら直爆で死んでもおかしくない場所に両親と妹の4人で住んでいました。当日はたまたま3歳の妹が腹痛を訴えたことで母親が妹の付き添いで病院に行き、田栗さんは家から5kmほど離れた小菅町の母方の祖父母の元へ預けられていました。

 *被爆の時

8月9日11:02、田栗さんは正確な時間を見てはいません。突然ピカーっとものすごい光線が走った後、ドーンと聞いたこともないような爆音と地響きが彼を襲いました。田栗さんは爆風で壁に打ち付けられていました。

焼夷弾がおっちゃけた!

当時空襲で主に使用されていた焼夷弾が家に落ちたと思った大人たちとともに家の近くにある防空壕へ逃げ込みじっとしていました。

 夕方になって恐る恐る出て峠から市街を眺めるとそこは火の海。

 「これでひとりぼっちになったな…」

 田栗さんは幼心に言いようのない孤独と不安を感じました。

 明けて10日、母親は妹を背負ってボロボロになって祖父母の家まで帰ってきました。「お母ちゃん!」その時の驚きと張りさけるような喜びは田栗さんの表情を見てきっと当時も同じ顔をしていたのだろうと思いました。

 *71年探している父

母親の帰ってきたその日から妹を祖父母に預けて母親と2人で父親を探し始めました。母親は5歳だった田栗さんは危ないので一人で行くと言ったものの、一度母親を失ったと思った田栗さんは母親が離れることへの喪失感を思い出しては泣き叫び結局母は一緒に連れて行くことにしました。

 ニオイ!!!

これは本当に残ると田栗さんは顔をしかめて言います。

真夏のあの日、人間の死臭や腐臭、汗、油…色んなニオイが混ざり合って鼻をつきとにかく何処に行っても地獄のように、そして言い表せないほどに臭かった。下着についたニオイは洗っても落ちません。

骸骨の黒くくぼんだ両穴はみんな悲しく自分を見ているような気がします。

母親は家があったらしい場所に着くと泣きながら割れた食器のかけらなどを集めていました。

後々母親は近所の豆腐屋に並んでいた主婦たちが一列に骨になって並んでいたことを当時を振り返りながら死ぬまで口にしていたと言います。

人間とは不思議なもので、数日もその状況を見ていると慣れてくるのだと付け加えました。

ニオイにしても、死体にしても。首のない赤ん坊を抱いている母親が横を通っても何とも思わなくなりました。

1ヶ月くらいは父親を探しました。

その当時は情報がないので「どこどこの救護所に誰々がいる」というウワサを頼りに訪ね歩くのです。しかし一向に父は見つかりません。

たまたま叔母を救護所で見つけることができました。

額はかぼちゃの種のような形に裂けて骨が見えていて、左手の傷がありました。しかし意識ははっきりしていて、田栗さんが来たことに「よう来たね」と喜びました。左手の傷には蛆が湧いていて、夜になるよ肉を喰らうのが非常に痛いのだと言います。

「静坊、取ってくれんね」

叔母に頼まれたもののピンセットは看護師さんが持っていて余りがないのでマッチ棒に紙や綿を巻きつけてポロポロと落としてゆきました。

「気持ちよか〜」

そう言っていた叔母が一週間後に亡くなっていたのは後になって知ったことでした。

*状況を理解する難しさ

2発目の原子爆弾は小倉に落とされる予定でしたが天候の関係で長崎に変更されました。

「小倉におっちゃければ(落ちれば)良かったのに…」

長崎の人は口々に言うし、田栗さんも長い間思っていたと言います。

「でもそれはおかしいと気づきました。」

小倉の人の不幸を願っていたのではなく、理不尽にあまりにも多くの大切なものを奪われた自分たちの状況をどう理解して飲み込めば良いのかわからなかったのです。

私はこの話を聞いた時に“71年”という時間の長さを強く感じたように思います。

*一番腹が立つこと

それは昭和天皇への怒りでした。なぜ3月の空襲で破壊された東京の街をその足で歩きながらすぐに終戦にしなかったのかということです。

 *妹の死

「男の戦争が終わった時に、女と子供の戦争が始まる。」

母方の祖父母の家に一旦は避難したものの、同じく避難してきていた長兄夫婦と子供たちとの争いは絶えず母は実家を出る決心をしました。妹はもともと体調が悪い上に逃げ回ってきたことでずいぶん衰弱していて、とうとう亡くなりました。

男たちで妹を畑へ運び荼毘に伏しましたが、田栗さんは子供でも男だからとそこに立ち会いました。全て焼けるのに4~5時間はかかりましたが、その時の匂いは思い出せません。

 *海に返した遺骨

田栗さんが家庭を持ち、子供たちも大きくなってきたころ東京へ移ることになりました。もともと墓を大切にしている土地柄なので墓を守れないとなれば近所の方から大顰蹙です。東京のお寺さんに相談すると33回忌を迎えた魂は骨を土に還しても良いということだったので、それならあんな暑い中で水が欲しかっただろうし、海はどこでも繋がっているので海にしようと故郷の海にお骨を流すことにしました。こっそり家の墓から自分の父親(と思いたくて拾ってきた)、母親、妹の骨壺を持ち出しリュックサックに詰めると気の置けない友達が船を出してくれ、軍艦島で知られている端島の隣の髙島付近から海流に流しました。

しっかり焼けた父と母の白い骨はすぐに沈みましたが、自分たちで荼毘に伏せた妹の茶色をした骨はしばらく海を彷徨ってゆっくりと沈んでゆきました。 

*被爆と病

「実際被爆の影響かわかりませんが」と前置きを入れて話は進んでゆきます。

小学校に翌年入学した田栗さん。その頃は身体じゅうに嚢胞ができ、大きなもので10cmくらいになりました。それを潰して膿を出します。それから鼻血もよく出たし、目もらい(ものもらい)が出るといった症状がずっと続きました。

母親は甲状腺の病気にかかりました。

「最近目が見えんばい」母親の目は徐々に下がってきました。

 *胃がんと被爆者手帳への思い

3年と6か月前、ついに田栗さんは胃の不調から病院で検査を受け胃がんを宣告されました。

「来るべき時が来たな」

それが最初に思ったことだったと言います。

治療を勧める医者に対し、5歳の時死んでもおかしくなかった命なので治療はしないと宣言するとずいぶんと驚かれたとお茶目な笑顔で笑います。

放射能もこれ以上受けたくないとMRIやレントゲンも拒みました。

そんな時「原爆症の認定を受けたらどうか」という話がきました。

「いやだ」田栗さんは即座に断ったと言います。

牛に押すような烙印があるでしょう、まるで被爆者だという烙印を押されたような気持ちになります。そして自分が被爆者だと名乗ることで息子は被爆者の息子になってしまう。親友は娘の結婚を自分が被爆者だからという理由で相手の親から破談にされたことを酒を飲みながら泣いていました。そしてそれは他人事ではないのです。

息子には結婚する時には父親が被爆者であることを必ず伝えるように言いました。それほどに理解されない差別があったのです。

「妹は死んでよかった、女だから特に。僕もあの時死んでればよかったと思う。」

同郷の友人はお金のためではなく、国へ報告する気持ちで申請をすることを勧めました。田栗さんはその友人にいくらか心を救われ原爆症の申請をすることを決意しました。

お金は月13万ほど入ってきていますが寄付をしています。

友人の中には認められて良かったねと祝いの言葉をくれた人もいます。

お金?何が良かったのか…!おかしい。

お金をもらっていることは悲しいことです。本当はお金なんてもらわなくても穏やかな生活がしたかった。

そう語る田栗さんの目には悔しさを宿した色と涙が浮かんでいました。

 「もう二度とこんなこと繰り返してほしくない。それだけです。」

田栗さんは会場に語りかけるように語調を強め、そして静かに席に着きました。

続く→【つなぐPJ】(東京)10/1(土) トークセッション第12回被爆証言に向き合うに参加して〜後半「生き取りましょうか?死んどりましょうか?」

 

 

One Comment

  1. お名前 (必須項目)松島勝成

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    田栗さん、ご無沙汰しています。
    田栗さんの被爆体験は初めて知りました。
    感動しました。

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