【つなぐPJ】(栃木)8/20(日) 第26回 栃木県原爆死没者慰霊式に参加して〜「原爆孤児、炊事軍曹になった少年」〜

「生き延びた人は心も身体もハンデが残っているから戦争はいけない。

                           理解してもらえないのがまたいやらしい。」

バケツをひっくり返したような雨の降る西川田駅の改札を降りて、まっすぐ7分ほど歩くと大きな公園が見えてきました。

「憩いの森」の表札を進むと、そこにあるのは2.5mほどの縦長な台形をした栃木県原爆死没者慰霊の碑です。平成2年設立の慰霊碑は私と同い年だとか(笑)

準備をされていた栃木県平和運動センター事務局長の福田さんが暖かく出迎えてくださり、それから栃木県被団協会長の中村さんにお会いしました。

私が一番驚いたのは参加された被爆者さんの人数でした。全員で7名。

「えっ、7名ですか?」思わず聞き返す私。

継承する若手がないため、慰霊式の準備など全てを被爆者の方々が行っている状態でした。団体の方は死ぬまで続けると元気におっしゃっていて元気をもらった反面、この方々がいなくなったら…と危機感を感じます。

これまで広島・長崎・首都圏中心の慰霊式に参加してきましたが、これが地方の実情なのだと思います。原爆や戦争に対する危機感が随分薄れているように思いました。

地元の若い方々が知ること、伝えてゆくことの必要性をもっと知る機会があることを願わずにはいられませんでした。

■慰霊式

栃木慰霊式1

土砂降りだった雨は次第に小降りになり、福田さんが開会の挨拶のマイクを握りました。

開会の言葉、参加者の紹介、献花、合唱…

誰が始めたのか座っている方へ後ろから傘を広げたり、隣の人のイスを自身のハンカチで拭いたりということが徐々に広がりました。

慰霊碑が建立され、第1回目の慰霊式から26年間雨が降らなかったということでしたが、26年目で戦争の傷跡も随分薄れてきている今、人が助け合って生きてきた過去を今一度思い出すために与えられたような雨だったように思います。

とても心温まる式でした。

■ 中村明さん(当時15歳) 

      — 原爆孤児、炊事軍曹になった少年 —

慰霊式の後は被団協の方々8名の食事の席にお招きいただきました。そばを食べながら歓談。そして会長の中村明さんの被爆体験をお話しいただきました。

当時中村さんは三菱学校の1年生で15歳。被爆した場所は長崎の爆心地に近かった三菱の工場だったと言います。鉄骨の建物の下敷きになって動けない中村さんを救ったのは当時の中村さんの指導者で、一命は取り留めたものの足を骨折して動けない中村さんの代わりにその方は中村さんの家族を探しに家のある場所まで走りました。

———中村の家族はいませんかー!

しかし中村さんの家の方面は火事で、この時彼は両親と姉を失っていたのです。残された兄、妹、そして自分…どうして生きていこう。

「兄は三菱で働いで、妹は学校、足の折れた私は炊事軍曹。」

頼る大人をなくした子どもたちは、お金も物もない貧困のどん底で、それでも力を合わせてその日その日をもがくように生きました。食料は山に入って木の根を取ったり、塩汁を作ったり。そのみじめなこと。

「親がおればな…と思い出して泣くこともあった。それでも生きるしかないから。」

楽しかったことは何もなかったと言います。

「音楽が聞こえたらいい音楽だなと思うぐらいで。当時映画はあったけど、当時の映画が30円、まんじゅう1個買ったら10円だから。」

中村さんは右手に収まる大きさのまんじゅうを虚空に握りました。その10円が、子どもが1日生き延びるための命の値段だったのでしょう。握ったまんじゅうは重そうに見えました。

昭和25年、中村さんは20歳で結婚します。奥さんは当時17歳の少女でした。

「その町で一番美人もらったから!」

と笑う中村さん。お互い大変な状況で、それでも支え合って築いた生活。柱を一本ずつ買って建てた家には昭和31年まで住み続けました。その年仕事の関係で転勤になり、今の栃木で新しい生活が始まりました。現在奥さんは肺がんに端を発したパーキンソン症で入院しています。

「毎日お見舞いに行くよ、助け合ってきた仲だから。」

多くのものを失った中村さんが築いた大きなものを感じさせる言葉でした。

これからどうしていきたいですか、という私の質問に対しては

「核廃絶の柱になりたい。生き延びた人は心も身体も絶対ハンデが残っているから戦争はいけない。」

と力強く答えてくださいました。

■ 木村和子さん(当時1歳)

記憶のない被爆体験

食事会が終わり、帰り際に最寄りの駅まで送ろうと声をかけてくださったのが木村さんでした。小柄でよく声の通る気さくな方です。駅に着くまでの車中でお話をしました。

今年初めて語り部をやるという木村さんは、とあることで悩んでいます。それは自身が被爆した時が小さすぎて記憶がないのに語り部ができるのかということです。全部後から聞いたことだけど、と前置きを入れて木村さんの話は始まりました。

木村さんが被爆したのは爆心地から2kmほどの荒神町にある疎開先の浄光寺内、1歳の時でした。外が眩しく光った時、木村さんの母親は木村さんを抱いて押し入れに逃げ込みました。その後の爆発と熱風で母親は頭をひどくやられ、外にいた姉は半身を火傷、木村さんは頭の左右に生涯残るほどの傷を負っていました。母親もその時の衝撃が原因で、生涯頭痛が付きまとったといいます。

それは真夏の出来事、火傷した姉や傷を負った木村さんの頭にはすぐにハエが卵を産みつけウジが湧きました。

「お前らくそうて(臭くて)の、そばに寄れんかったけえの」

叔父はその時を思い出して顔をしかめました。その叔父は原爆が落ちた直後は命令が下り、息絶え絶えの人から名前や住所を聞いて書き取り、身体にくくりつける作業をしていました。死にゆく人は自分の身体にくくりつけられた紙をどんな気持ちで見たのか想像に耐えませんね。

さて、原爆から生き延びた一家を悲劇が襲ったのは終戦後でした。木村さんの父親は次男でしたが、父親の兄が戦死していたことがわかったため農家である家を継ぐことになったのです。母は良家の出身でした。当時の良家の娘は花や琴を磨くことが良しとされ、掃除や洗濯など生活に関わる一切はお手伝いの方が全て請け負っていました。そんな美しい花や琴の芸も農家で生活するには一切役に立たず幼い2人のこどもを抱えた母親は離婚を余儀なくされたのです。

その後は西条に移り、牛小屋を借りて生活を始めました。母親は病院の手伝いを始めましたが、家事などができないためこどもたちは母親を支えられるように朝から晩まで働きました。西条は酒どころのため酒瓶が沢山出ます。それを洗ったり、盆灯籠に紙を貼ったり…

姉が結婚し、その旦那さんの弟と木村さんは結婚しました。新聞の小売店の経営を始め紆余曲折あり、大阪を経て最終的に栃木県で営業することになり定年まで新聞を配達しました。今まで子供のころから散々使われてきたから、使う側になった時は本当に嬉しかったと笑顔の木村さん。

「暑さ寒さには参りましたけど、生きてかなきゃならないから」

と新聞営業所時代を振り返りました。

記憶がないけど原爆を意識することはありますか、と尋ねると

「大阪や栃木の人たちは原爆のこと自体よく知らなかったから原爆の子なんて言われなかったけど、意識したのは美容院に行くとキズのことを聞かれる時。それからガンもやったしね。」とやはり抱えていたキズを教えてくれました。

そこまで話したところで車は駅に到着。まだ時間があれば…と名残惜しい気持ちでしたが、今後も木村さんが私に話してくださったように体験を語りついでくださることを祈ります。

現在栃木県の原爆の語り部は4名。ぜひ皆さんに聞いていただきたいと思います。

また、この記事を読んで興味を持った栃木県やその周辺の方もお気軽にご連絡くださいね!

栃木慰霊式2

【栃木県原爆被害者協議会 連絡先】

〒320-0052

宇都宮市中戸祭町821労働者福祉センター4F

(平和運動センター 福田様)

電話  028-622-0567

FAX 028-621-7458

しの(継承活動に取り組む人々をつなぐPJ)

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