【つなぐPJ】(東京)7/27ピースボートおりづるプロジェクト「被爆体験お話の会」に参加して ー「赤いカンナの花」~母親と2歳の娘の想い~お話を聞いて

2016年7月27日PM7からピース・ボートで、坂下紀子さんの「赤いカンナの花」~母親と2歳の娘の想い~のお話の会がありました。ピースボートセンター(東京)で、お母様とご自身の被爆体験をお話頂きました。 http://peaceboat.org/15045.htmlピース・ボート「ヒバクシャ地球一周 証言の航海」にこれまで乗船した人、8月初めから乗船予定の人や、初めて被爆者の話を聞く人など20人余の参加者があり、「赤いカンナの花」~母親と娘の想い~のお話の会がありました。ピース・ボート「ヒバクシャ地球一周 証言の航海」にこれまで乗船した人、8月初めから乗船予定の人や、初めて被爆者の話を聞く人など20人余の参加者があり、坂下さんのお話しに聞き入りました。坂下様は、原爆が引き起した惨劇を、核兵器廃絶の願いを、被爆体験の継承の大切さを伝えるのが私の役目だと、次のように話されました。

「1945年8月6日朝、広島市中広町、爆心地より1.4Kmで、2歳の私(坂下さん)は家の縁側から、井戸端で洗濯する母(26歳)を見ていた。ピカーッと閃光が走り、爆音と地響き、その後私は爆風で土間へ数メートル吹き飛ばされて、顔じゅう真っ赤に血だらけ。兄は柱と下駄箱の下敷きで泣いていた。気を失っていた母も祖母に起こされた。近所のおばさんや子どもたちを瓦礫の下から助け出そうとしている中に、周りは火の海となってしまった。 祖母は、瓦礫や木材の下の人を助けられず、ひざまずいて「こらえてつかわさい、こらえてつかわさい」と、手を合わせて謝っていたという。

母は、火に囲まれるので、祖母と私の兄と私と逃げようとした時、隣のおばちゃんだと思われるが、私の足をひっぱる手が見えたという。母はおばちゃんの手と顔は見えるが、その体は瓦礫に埋まってしまっている。おばちゃんの「助けて下さい」というつらそうな目が母にすがりつくが、母は「心を鬼にしておばちゃんの手を払いのけた」という。母はその後70年近くあの時のことが忘れられず、母は「鬼になった、私はあの時、鬼になった」と苦しみ続けた。

皆で逃げた川の中も川原も多くの人や動物の死骸が一杯で、座る場所もなかった。雨が降ってトタン板を頭にしたがずぶ濡れとなり、母は夜どうし雨の中私の額の傷を布で拭いてくれた。広島市内は3日3晩火の海であった。

母は、亡くなる1年ぐらい前から認知症になって、大事に思っていた私が判らなくなった。

ある日母は、病院の窓の向こうに咲いている赤いカンナの花をずっと見ていた。母は、それまでは赤いカンナの花を見ると、花を避けるように道で遠回りをしていた。あの夏の日、町中が火の海になった時、母は「赤いカンナの花が、狂ったように咲いている」と錯覚したのだそうだ。だから、母は赤いカンナの花が怖くて嫌だった。母は私のことを忘れた代わりに、赤いカンナの花の怖さを忘れた。私は、赤いカンナの花をずっと眺めている母を見て、一面寂しいけれどほっとした。 私は、「母が原爆のことを忘れてくれて、よかったなあ」と心から思い、「お母さんよかったねー」と、寝ている母を抱きしめた。(と話される坂下さんの目は、心なしか潤んだかのようだった。)

被爆者は差別を受けた。「あの人は元気がないね」と言われないよう、私は努めて元気に明るく振舞った。詩を書いても、原爆のことは書かなかった。結婚する前に、私は主人となる人に、自分が被爆者であることを話した。お義父さんの「平和を語り、いのちを愛する娘さんは、大切にしなければ」の言葉と、主人の理解ある気持ちに、私は恵まれたと思う。

私は、2013年ピースボートに乗船した。船内では若い人数名と被爆者が協力して、その被爆者の「あの日」の記憶を、何らかの形で表現するプロジェクトを皆でやった。紙芝居、ファッション・ショウー、朗読劇など。私は「継承」には様々の形があるのだと学んだ。 私のグループでは、若い人3人が、母と私の想いの話を「カンナの花」という歌にして、皆の前で歌って下さった。「白い光がながれ、青い空は、世界は黒く、色を失った・・・”」。

私は「例え被爆者でなくても、被爆者の話に耳を深く傾け、その想いを汲み取り、寄り添い、考えていくことで、「記憶」は繋いでいけるのだ」と実感した。私に何かできることはないだろうか? それは核兵器の恐ろしさを語らねば・・・。

逃げ川原で無残に浮ぶ多くの死体や、焼け野原となった自宅前の畑に死体が毎日積み上げられ山となった。その死体に蠅がたかり真っ黒な塊に見えた。役所の人が来て、油をかけて、人ではなく物のように燃やした。そのうち遺体の灰の山は風に飛ばされ、骨の塊も石ころの様に土に埋まり、平らになっていった。人の死ではなく、物としての死である。原爆の悲劇はドロドロしたものである。これを語らずして、原爆の実態―高熱、爆風、放射線―の怖さは判らない。母の脳裏に焼き付いたあの光景は、「命の尊厳」など微塵もなかった。人間が人間として死ぬことができない、そういった非人道的な状況を作り出したのが、原爆である。かけがえのない人生を、一瞬にして、無差別に奪われた人たちの、「人間としての尊厳」を取り戻したい。この尊厳が取り戻せるのは、人々が、被爆者の無念な死と向き合い、人間とは共存できない核兵器の理不尽さに気付いた時であり、二度と核兵器を使用しないことを、被爆者をつくらないことを、亡き被爆者の御霊に誓う時だと思う」と、坂下さんはしっかりとお話になりました。

坂下さんは今年8月、ピース・ボート第9回「被曝者世界一周 証言の航海」に再び参加されます。乗船の人々とまた訪問先の国の人々と、平和について語り合い、交流をされます。坂下さんは、秋にお帰りになったら、それらを詩に表現をされる予定だとお聞きします。

2015年8月ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会では、坂下紀子さんの被爆体験を絵や写真と坂下さんの朗読をDigital Story Tellingの作品(約5分)に纏め、YouTubeに Upしました。下記URLをご覧下さい。

https://www.youtube.com/watch?v=2m9Bo9g9WZg&feature=youtu.be https://www.youtube.com/watch?v=2m9Bo9g9WZg&feature=youtu.be

 呑田務(継承活動に取り組む人々をつなぐPJ)

*「継承活動に取り組む人びとをつなぐプロジェクト」はこちらをご覧ください。

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